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お友達のガイドの下見にお付き合い
(写真1)
いつも近くまで行きますが拝観するのははじめて。
勉強になりました。
等持院
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗天龍寺派。
山号は萬年山。
暦応四年(一三四一)に足利尊氏が夢窓疎石を開山として衣笠山南麓に創建した。
足利氏の菩提寺である等持寺(↓33頁)の別院として建立され、等持寺を南寺(南等持寺)と称したのに対し、等持院を北寺、または北等持寺と呼んだ。
延文三年(一三五八)、尊氏の塔所が北等持寺に定められると、尊氏の法名、等持院殿仁山妙義大居士に伴って寺号を等持院と改め、応仁・文明の乱後に本寺である南等持寺も等持院に合併された。
歴代の足利将軍の廟所にふさわしく、十刹の第一位となり隆盛したが、幾度かの災禍にあい、現在の伽藍は文政元年(一八一八)に三度目の復興がなされた際に建立されたものが中心となっている。
霊光殿には尊氏の念持仏とされた地蔵尊を中心に、達磨大師と夢窓疎石の像が両脇に祀られ、歴代足利将軍の木像(十三体)が安置されている。
方丈裏と書院に面した池の北岸は高い築山となっており、築山上には足利義政好みと伝える茶室清漣亭がある。
方丈の北庭は東西の苑池からなり、夢窓疎石が等持院創建当時に構築したことに始まる芙蓉池と称される名園。
特に東の苑池は心字池とも呼ばれ、三神仙島をかたどった池庭で室町時代の手法が見られる。
(京都検定テキスト)
拝観のしおり
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/2701c93c1de7878f0c7ebaa774504c05
コンタクト
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/9fe040da9c807571c3e532b2031e34bb
午後、文博へ
ギャラリートークに参加
説明してくださる方はいつもと同じ学芸員の方
何度聞いても新しい発見がある。
素晴らしい
石崎光瑶展も今日が6回目
われながらあきれる(-_-;)
(写真2)
石崎光瑶に関するパンフレット
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/1df247d2547ccf6598e4a1b40bb36f1e
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/44e71a150027289e5264473d138e53c0
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/9379aa2080b29c7a03ca21f72e5e7dbb
総合展示も見る。
陽明文庫の名宝と池大雅展 山水颯爽
(写真3)
陽明文庫の名宝のパンフレット
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/ef77867a5b1149e63a0d8e8ab96060f4
池大雅展 山水颯爽のパンフレット
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/efdced74dfbc7b676a5cbd7be874911a
お邪魔します。
等持院、上洛した年に初めて訪れたお寺です。
静かな庭園が印象深かったです。
諸情報を拝見していて、また機会があればと思いました。
こんばんは。
コメントありがとうございます。
わたしは等持院を拝観するのははじめてです。
京都はどこに行っても外国人観光客が多く騒々しいですが
とても静かでお庭も良かったです。
京都ではもうすぐ時代祭、
・・・・・
開始された当初は、室町時代行列は存在しなかった。それは後醍醐天皇を蔑ろにして室町幕府を開いた足利尊氏を朝敵とみなす歴史観によるものであったが、平成十九年の桓武天皇千二百年記念大祭を機に、室町幕府執政列が新たに行列に加わった。
(京都検定テキスト)
・・・・・
足利尊氏には朝敵というイメージがあってそれなりに納得はしているのですが
学ぶことは多いです。
次のようなことは知りませんでした(-_-;)
幕末の勤皇派が尊氏、義詮、義満の三体の木像の首を切って三条河原にさらしたり、高山彦九郎は境内の足利尊氏塔を鞭で打った。
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