今は山里に行けば、岩魚の塩焼き定食が味わえるのですから、いい時代になったものです。
岩魚は、サケ科の魚の中でも稚魚の餌付けが難しく、長く完全養殖は不可能といわれていました。宮城県の栗駒高原耕英の数又一夫氏が、苦心の末に岩魚のふ化と稚魚の餌付けに成功したのが、昭和44年(1969)。これが、日本で最初の成功事例だと言われています。しかし、養殖に成功した当時は、それまで幻の魚として一般の人びとの口に入る機会はあまりありませんでしたから、思ったほど売れなかったそうです。20数年前に会津駒ケ岳に登った時には、麓に立派な岩魚の養魚場がありましたので、この頃になると養殖岩魚もかなり普及してきたと思われます。今では、各地に岩魚の養魚場があり、イワナ料理がお手頃の値段で提供されています。今年5月に武蔵御岳山に行った時も、麓に一軒山女魚と岩魚の釣り堀がありました。
ヤマレコのkichichanによると、昭和50年代になっても滋賀県愛知川源流の小渓や京都府の由良川源流の芦生の沢では、岩陰に逃げ込んだ岩魚を軍手で掴んで採れたそうです。今ではあまり考えられませんが、沢の最深部の枝沢を釣り歩き、焚き火をたいて寝泊まりするスタイルだったとか。
そのkichichanに誘われて、昭和53年(1978)8月に奥秩父の滝川に出かけました。渓流釣りなどしたこともない私は、あわてて釣り道具を買い揃えたのを思い出します。彼は、滝川の豆焼沢かブドウ沢でのんびり釣りをしながら沢登りを楽しもうと思っていたようですが、一方私は私で出来ることなら水晶谷を遡って雁坂峠に出たいと考えていました。呉越同舟といったところです。
最初の日は、西武秩父線で秩父に出て、秩父鉄道に乗り換えて三峰口へ。そこからバスで終点の川又まで行き、後は歩きです。午後4時ごろに豆焼沢出合に着きました。沢に入って間もなく左側から流れ込む曲沢に入り込み、期待に胸おどらせながら竿を出しましたが、魚影一つ見当たりません。結局、夕食に岩魚をという夢は、まさに夢となってしまいました。その日は、出合から更に1時間ほど滝川を遡って、適当なところにツエルトを張りました。
次の日、いよいよ本格的な沢登りが始まります。滝川の核心部である三本桂沢から古礼沢の出合までをどうやってクリアーするかが、鍵となります。
幽寂なゴルジュ帯を徒渉、へつりを繰り返して進んでいくと、沢筋が180度向きを変えるように急激に回りくねった奥に6m〜7mの滝がありました。見上げると、1mぐらいの滝口から滝つぼに向かって水がドドドウと流れ落ちており、滝口の奥には2段の8mの滝の一部が見えます。相当の水量ですが、ここを越えていかなければ、水晶谷に入谷できません。
滝の右側の岩壁が登れそうなので、クラック状になったところをよじ登っていきます。滝口まではあと3mほど、登りきるには5mくらいまでくると、フリークライミングで登るにはホールドがちょっと心もとない個所がありました。補助ザイルでもあれば、空身で登れるのにという思いが頭をよぎります。一気に登るか、ちょっと迷います。彼は彼で、下から無理をするなというジェスチャーを繰り返します。このまま思い切って登ってしまえば登れそうにも思えましたが、そうなればそうなったで彼も同じように登ることになります。問題は、万が一にも何か起こった時に、今の装備では機敏な対応が難しいということに尽きました。
ここは一つ、諦めよう。代わりにkichichanが高巻のルートを偵察に行きました。偵察結果は芳しくなかったようで、意気消沈している様子です。結局、水晶谷とブドウ沢の出合の少し手前で、引き返すことになりました。
後で調べて分かったのですが、ここも大きく高巻く道がありました。偵察の結果をもう少し客観的に検討する時間がもてたら、巻いて行けたかもしれません。しかし、今回の撤退は明らかに装備とルート研究の不足が原因ですから、自業自得です。
沢登りには、沢登りの基本技術のほか、やり抜く気迫や冷静な判断力が必要ですが、それ以上に、ベースとなる経験が重要です。そんなことを痛感させられた山行でした。
それにしても岩魚はどこに行ってしまったのでしょうか、まったくと言っていいほど魚影を確認できませんでした。翌年夏、奥秩父入川の股の沢・真ノ沢に入った時も同様の状態でした。これは「乱獲」の2文字で表わすことができる事象ではないか、というのが二人の結論でした。
近年、釣り愛好家による秩父山域での岩魚釣りが多数報告されています。当時全く影を潜めてしまった幻の魚・岩魚が、奥秩父の沢奥深く再びよみがえり、元気よく清流を泳いでいるとしたら、何と素晴らしいことでしょう。一方、岩魚の稚魚の放流によるものかもしれませんが、それもまた時代の流れというものでしょうね。
【参考文献】
岩魚の養殖については、下記「イワナ物語」参照
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/5551/iwana.html
当時僕は京都にいて先輩たちに誘われ鈴鹿や福井地域などでアマゴ釣りを楽しむ機会が数回ありました。開けた沢の河原にテントを張り集めた薪を燃やし、各自それぞれの沢に別れ朝夕の釣りを楽しんだものです。家では山本素石や井伏鱒二の本を読み、釣りの世界に思いをはせたものです。1973年から10年間、『週刊少年マガジン』(講談社)に連載された矢口高雄『釣りキチ三平』(つりキチさんぺい)の影響もあったのかもしれません。
この計画は暑い夏、関東在住の'fengsan'さんと高校時代親しんだ秩父の沢で涼しい時間を過ごしたいとの単純な思いで行った気がします。和名倉山から流れ出す小さな支流・曲沢には入渓する釣り師も少ないだろうと勝手に考えたのでしょう。小さな魚影も確認できなかったことは印象的でした。鈴鹿や福井地域などと異なり、さすが首都圏では釣り師も多いのでしょう。また秩父の緑に覆われ深く切れた沢に改めて感心しました。一方沢から山頂を極め一般ルートで戻ることをまともに考えていなかった気がします。
その後首都圏に在住することになり、ある時から奥多摩地域の沢を楽しむ機会に恵まれました。念のためシュリンゲとザイルを携帯すればさまざまな沢から稜線に出ることが出来ます。深く樋のように刻まれた小さな沢にも、放棄されたようなワサビ田がありました。大常木谷が深く刻まれた奥多摩地域の沢の代表例でしょう。沢を辿り緊張感が解けて一般道を急ぐ気分は独特でした
'fengsan'も一緒に行った機会から、さらに行動を発展させたことを良かったと感じています。
コメントありがとうございます。
確かに、自然派としては「釣りキチ三平」は読んで楽しい漫画でした。幻の魚イトウの巻が特に印象に残っています。
わさび田といえば、1970年代に上京してきて初めて住んだ三鷹大沢の野川には段丘のハケ地形から湧く湧水を利用してわさびが栽培されていました。(なお、東京新聞平成18年5月27日のWEBニュースによると、大沢の里に代々わさび田を営んできた古民家が移築され、11月に公開予定とのことです。)
奥多摩でもかつては多くの場所で栽培されていたことでしょう。小規模なところは淘汰され、山も荒れ放題では、悲しい話です。
このテーマ、もう少し探求してはいかがでしょうか。
'fengsan'のと山行記録を時系列で日記に整理し、この記録当時の心象風景を再確認しました。「鈴鹿や福井地域などでアマゴ釣り」また休日に時にはカヌーで川下りをするなど適宜楽しんでいた記憶はありましたが、達成目標のある計画的な山行からは縁遠かった気がします。達成目標は、大学院の6年目で研究の分野に特化していた時期であったような気がします。それが「沢から山頂を極め一般ルートで戻ることをまともに考えていなかった」ことに繋がったと改めて納得した気もしています。
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