北アルプスには、高校の時に一度だけ後立山連峰をテント縦走した経験があった。その時は、連日天気がすこぶるよく、夏山を満喫した。このビギナーズラックというべき経験が、心の中に夏山に対する慢心を生んだのに違いない。それを教えてくれたのが、雨風吹き荒ぶ剣沢の一夜である。
大学1年の夏休みの話である。中学以来の友人が、富山県の高岡に父親が転勤になったから遊びにこいという。高岡からは、立山、剣岳は目と鼻の先である。しかも、友人の家にはテントがあるという。ここは一つ登ってみるかと、心が動く。
8月の上旬、テント泊用の装備をリュックに詰めて、高岡の友人の家に行く。食料は現地調達だ。登山の経験がない友人にあまり荷物を持たせるわけにはいかない。リュックの重量は26kgになった。
朝早く、高岡の友人宅から、富山、千寿が原を経由し、室堂に向かう。空はどんよりとしていて、今にも雨が降りそうである。それでも、雷鳥沢から地獄谷を経由して剣沢のテントサイトに午後4時30分過ぎに着いた。
早速、テントを張る。ところが、何ということだろう。持参したテントは、海浜用のテントだった。迂闊なことに、テントをあらかじめ点検もしないで持ってきてしまったのだ。これは心細いことになった。
テントサイトには既に多くのテントが張られていたので、設営地を自由に選ぶというわけにもいかない。それでも、雨風に備えて、できる限り適地を選び、側溝をわずかでも掘ることにした。一度テントを張りかけたが、なぜか風が心配になる。仕方なく、雨には弱いとは思ったが、テントを張る向きを変えて張り直す。
夕食を手早く済ませて、寝袋に潜り込む。夜10時を過ぎるころには、心配した通り雨風が次第にひどくなってきた。深夜になると、雨風の音が益々大きく響き、暗闇のテントサイトの状況を把握するのは困難になった。
激しい雨が、薄手のテント生地に容赦なく打ち付けてくる。ついには、風の息に合わせザザーと襲ってくる雨が、生地の織り目を直接通過して吹き込んでくるような状態になってしまった。風は一層荒れ狂い、テントポールに引っ掛けるテントの梁先の金属のリングから布地が裂けてくる。慌てて外に出て細引きで補強したのだが、テントの中でポールを手で持って支えていないと、いつ風に吹き飛ばされるか知れたものでない混乱に陥った。
雨水はまるで川のせせらぎのようにテントの中を流れていく。テントの中で雨具を着込み、一睡もせず、まんじりと時がたつのを待つ。情けないことに、十分なビニール袋も用意していなくて大切な寝袋をびしょ濡れにしてしまった。これでは、山行を続けるどころの話ではない。
朝方、少し雨足が弱くなったところを見計らって、思い切って山小屋に避難することにした。テントは風に飛ばされないよう石で重しをする。この刹那、撤収することに、ある種の敗北感・屈辱感を感じたが、山小屋の中は既に避難者で一杯であった。一夜夜明けて悠々残っていたテントは、ほぼフライ付きのものだけであった。
次の日も一日中、雨風ともに激しく、小屋に沈殿することになった。鉄砲水にみまわれ、雷鳥沢は渡れなくなったというから、帰ろうにも帰れないというわけである。夕方になると、一時ガスも晴れ、束の間雨も止んだ。
しかし、次の日も朝起きると、昨日ほどではないが雨が降っている。雷鳥沢の水が引くのを待つ必要もあるから、内心じりじりしながら出発を遅らせる。ようやく午前10時ごろに雨が急に弱くなったので、足止めを食らっていた他の登山者も動き出す。
我々も慌てて山小屋を出立することに決定する。そこで一悶着。山小屋で友人のポンチョがなくなってしまったのだ。憤慨やるかたない思いで胸がいっぱいになるが、いかんともしがたい。びしょ濡れになりながら室堂まで戻る。
この時、私は山の頂に登りたいという欲求にとりつかれていたのか、悲惨な経験をした友人を室堂に待たせて、ひとり立山の雄山まで急ぎ足で登ったのだった。今から思うと人間ができていなかったというほかはない。一の越からの稜線はさすがに風が強く、寒かった。
なお、下記の記事によれば、同月10日からの降り始めた雨によって、歴史的な河川被害が生じたようである。
(昭和44年(1969年)8月7日〜8月9日 山行記録ノートから、一部編集)
(参考1)昭和44年8月のゲリラ豪雨の被害
昭和44年8月上旬に発生した集中豪雨は、県内各地に大きな被害を与えた。
この豪雨は、俗に「ゲリラ豪雨」と呼ばれるもので、7月末から8月上旬にかけて、断続的に強い雨を降らせ、特に8月11日8時頃より、その雨量強度を増し、大正3年以来の大洪水となった。
この豪雨により、常願寺川上流の湯川左支川の多枝原谷等では、土石流が発生し、称名川、真川等で、渓岸崩壊が数多く生じた。
http://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/jigyo/river/syousai06.html
「国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所HPより」
(参考2)六九谷展望台
1969(昭和44)年8月の集中豪雨によって、多枝原(だしわら)谷の沢の一つが大きく崩れてできた谷です。
1969年にできたことから「六九谷」と呼ばれています。 崩れた谷の内側は山腹工事が施され、今では当時の荒々しさは見られなくなりましたが、手前を大きくえぐられた地形は、円形劇場を想わせるすり鉢状となっています。
(出典:http://www.tatecal.or.jp/tatecal/map/69tanip.htm)
(参考3)友人の手記 ※友人の許可を得て追加で掲載
テントを設営し、カレーライスを作って食べ終わったのが、夜の8時頃であった。「明日は険しい岩稜地帯になるから、早目に寝よう。」と言い合って、寝袋に潜り込んだ。するとまさにそのとき、突然、ドドォーンという大音響とともに豪雨が襲ってきた。何しろザザァーという音がしたと思ったら、その雨がテントの布をそのまま通過して、中に降り込んでくる。しかも強い風でテントごと吹き飛ばされそうになる。そうはさせまいと、命の綱ともいえるテントの心棒を、2人でそれぞれ1本ずつ、力一杯支える始末である。
やがてテントが浸水し、あれよあれよという間に、腰のところにまで水が来てしまった。周りで稲妻が光りはじめ、雷がゴロゴロ・ドッドーンと落ちはじめた。これは本当に怖かった。標高が2,600メートルほどのこの場所では、雷はわれわれと同じ高さで発生して文字通り周囲をピカピカ光って転げ回るのである。そのうち雷がもっと近づいてきて、ごく近くで何回も、ヒューン、ガゴォーンと砲弾のような音がする。それだけならまだしも、轟音とともに金色の閃光がひらめいて、周囲が真昼のように明るくなる。まるで艦砲射撃に遭っているようなものだ。
午前5時を過ぎて辺りが明るくなり始めた。すると一瞬、雨風と雷が弱まったときがあった。そのときを狙ってfengsanが「このままだと命が危ないから、一か八かで山小屋まで走るか。剣沢小屋なら、そう遠くはない。」と言い出した。私はすぐに賛成し、身につけているベルトのバックル、腕時計、鍵、硬貨、登山用具の金属品はもちろん、テントや荷物など一切合切を捨て、身をかがめ、頭を低くして走り出した。走るすぐそばで閃光が渦巻き、ゴロゴロと音がするのには参った。雷の巣に入り込んでしまったようだ。その中を、前を行くfengsanの背中を追って、必死で走りに走った。
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