その本の後記によれば、深田は百の名山を選ぼうという志を戦前から持っていたらしいが、本の完成をみたのは、登山歴50年近くに及ぶ還暦の時だったようだ。
選定の基準としては、3点記してあった。第1には、「山の品格」を挙げている。名山といわれるためには、まず「厳しさか強さか美しさか、何か人を打ってくるもの」が必要だと言う。第2には、「山も歴史の尊重」である。「人々が朝夕仰いで敬ま(ママ)い、その頂に祠をまつるような山は、おのずから名山の資格を持っている。山霊がこもっている」と語る。第3に挙げたのは、「個性のある山」だ。芸術作品同様、「その山だけが具えている独自のもの」を尊重すると述べている。それでも、選定には悩みに悩んだとみえる。地域ごとに、百名山に挙げ得なかった山の名前を具体的に列記されているのが、実に面白い。きっと、二百名山、三百名山と選ばれる時代が来ようとは、想像だにしなかったのだろう。
初めて百名山を意識して登った山はどの山だったかと問われれば、わたしは上州の武尊山であると答えることだろう。武尊山という山名は、就職して初めて関東に住むことになった私にはこれまで全くなじみのないものだったからだ。そのなじみのない山に就職直後の5月に登っている。そのせいだろうか、深田久弥夫妻が武尊山に登ったのと同じルートをたどっている。そのルートは、JR水上駅から久保集落へ。そこから上ノ原高原に行き、そこを起点に最高峰の沖武尊、剣ヶ峰、前武尊を経て川場尾根を旭小屋に下るというものであった。当時、上ノ原高原には国鉄上ノ原山の家があって、結構このコースが使われていたようだ。
麓の集落を上ノ原高原に向けて歩いていくと、満開の桜の木の横で、鯉のぼりがあがっていた。どうもこういう2つの季節が一度に来たような景色は、中部日本の平野部で育った人間には、いささかなじめない。上ノ原高原は、まだ新緑もろくに芽吹いていなくて、赤い屋根の小屋が一軒見えるだけだった。その向こうに雪の残る谷川岳の山脈が見え、道端には、蕗の薹。のどかな登りである。尾根まで登ると雪が残っていた。2人の登山者がピッケルを残雪の笹原にさして休んでいたので、一瞬ギクッとした。だが、あたりを見渡す限り、針葉樹の森も雪解けが進んでいるようなので、大丈夫だろうと判断した。沖の武尊の頂上は、すっきりとした青空で、谷川岳や燧ケ岳など四方の山が見渡せて、満足した。
ここから美しい姿の剣ヶ峰がよく見通せた。剣ヶ峰から前武尊の岩場は、登山者が結構多かったので通過に時間がかかったのを覚えている。前武尊からの川場尾根の下りは一目散、旭小屋からは林道歩きで川場温泉方面に向かった。
【山行記録】昭和48年(1973年)5月
6:00登山開始、9:15沖の武尊着、12:00前武尊発、13:40旭小屋着
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