山行記録によれば、初日は中房温泉から燕岳に登り、燕山荘付近でテント泊。次の日はいわゆる表銀座コースを歩いて槍ヶ岳へ。槍ケ岳山荘近くのテント地に着いたのが午後の4時頃。天気が下り気味なのが気になったのだろう、ここで4時の気象通報を聞いて天気図を確認してから、その日のうちに槍ケ岳を往復した。3日目は、案の定、霧が深い。中岳を過ぎてしばらく歩いたところで、再度気象通報を聞いて天気図を書く。霧雨の中、午後13時20分に北穂小屋に着いた。この日は小屋泊まりだった。4日目、涸沢岳から奥穂岳、ジャンダルムまで行く。帰りは穂高小屋から涸沢に下り、上高地河童橋にたどり着いたのは夕やみ迫る頃であった。
さて、あの頃は、登山途中でもわざわざ休憩して良く天気図を取った。連続して天気図を書いていくと望観天気と相まって天気の推移がおのずから読めてくるから不思議だった。漁業気象の高気圧・低気圧の位置や移動方向等や前線の種類、伸びる方向、ポイントとなる等圧線はそのまま天気図に書き込んでいくので、所要時間は20分ほどで事足りた。
もっとも、そうはいっても、天気図を取ったからといって決して天気がよくなるわけでない。では、なぜ天気図を取るのか。当然リスク回避の必要からという答えがあるに違いない。私の場合もそうだった。天候の状況を確かめて、必要なら登山計画を修正し、登山の行動予定を確定するためだ。
しかし、より深い回答を求めるとしたら、そのヒントは今西錦司の次のような言葉にあるように思われる。「本当の登山家とは、山のことをよく知っている人であり・・・山の登り方というものがあるとすれば、それは山を知ることによって体得されるところの、山登りの一種の礼儀作法のようなものではなかろうか」(「山岳省察」山の作法より)
彼は、山道にはおのずから休み場があり、泊まり場がある。滝のような悪場も左右どちらを巻いたらよいか地勢上決まってくるという。そして、自分の一挙一動が常にぴったりとその山に当てはまって、いささかも無理がないというようにならなければならないとし、自然を知り尽くした先達に学ぶことの必要性へと論を展開している。
私流に理解すれば、山を知るとは、自然の中に自分を無理なく溶け込ますことである。そのためには、科学的な見方、考え方に支えられて自然を感得する努力を惜しんではならない。季節や気候などに最も合った山歩きを心がけること。地図を用意し、天気図を取り、風の向き、雲の流れに注意しながら歩くこと。天気が許せば景色を満喫できるところに泊まり、天気が悪ければ無理をしないこと。若き日、山を楽しむ極意はそのあたりにあると考えていたように思う。
天気図については、以前ヤマレコ日記に書いたことがある(参考2)が、今も私の手元に、日本気象協会の「ラジオ用天気図用紙NO.1」(NHK第2 気象通報・ラジオたんぱ気象通報受信用)の使い残しがある。50枚1組で定価410円、本体価格398円とあるから消費税3%の時代(平成元年〜平成9年)に買ったものだろう。しかし、紙はすっかり黄ばみ、長く使われた形跡はない。長年愛用したSONY製の携帯ラジオもすっかりお蔵入りである。気象通報も、当時1日に3度あったが、今では16時の気象通報しかないという。情報が多様な形で手に入る時代の趨勢なのだろうが、自然を知り、山を安全に楽しむためには残念なことである。
【山行記録】 昭和45年(1970年)10月8日(木)〜10月11日(日)
10月8日
8:45中房温泉、12:00合戦小屋、13:30同小屋発、14:30燕山荘着、燕岳往復して15:35テント地
10月9日
7:00出発、8:15為右衛門吊岩、8:55喜作レリーフ、9:10天気図とり、11:20赤岩岳、15:15殺生小屋上、15:55槍ヶ岳山荘、16:00天気図とり、テント地から槍ヶ岳往復17:45着
10月10日
5:30起床、8:50中岳、9:10天気図とり、霧風なし、9:55天狗原分岐、10:20南岳 霧雨、13:20北穂小屋着 同小屋泊
10月11日
6:20出発、7:50涸沢岳、8:25穂高小屋、8:45奥穂岳、9:37ジャンダルム、10:30奥穂岳、11:00穂高小屋発、12:15涸沢小屋着、12:50同小屋発、14:00梓川出合、16:05徳沢園、17:35上高地・河童橋着
(参考1)今西錦司全集第1巻P275~278「山岳省察・山の作法」
(参考2)「天気図を書く、天気図を読む 撤退は悲しいね」
https://www.yamareco.com/modules/diary/356744-detail-171127
一緒に行った印象が蘇ってきました。印象は経験などによっても異なるものでしょうが、僕にとっては森林限界を超えたはじめての長距離縦走経験でした。
燕岳からの縦走路に入って間もなく男性1人を加えた女性3人グループと数回行動を前後しました。彼らは絶好の見晴らしが得られる場所で小休止していましたが、こちらは原則的には時間経過を元に小休止を決定していました。そのため彼らが小休止しているところを追い越す場合は羨ましく感じたものです。いつかは彼らのような行動をしたいと思ったもののまだ達成できていません。
9日のテント地だったろうかお湯を沸かす準備をしていた時なけなしのレモンが転がって落ちていってしまった記憶が残っています。ザックの中から不用意に取り出した結果でしょう。この時にブロッケン現象を写真に撮った記憶もあります。
10日の小屋泊まりの朝の時だと思う。早朝暗い中で食事の準備を進めていたグループが、隣のグループの灯油を自分達の水と間違えて使ってしまったようだ。使われたグループは工程を考えて量の持ってきてるので計画 が達成できなくなるとかなり怒っていた。僕らはホワイトガソリンを利用していたが、もし間違えたのが灯油でなくガソリンだったらと考え恐ろしくなった。その後船などに長期間乗船する機会に恵まれたが、利用するガソリンの保管は風通しが良く漏れがすぐに点検できるところに孤立した赤い金属容器に入れて保管されているのを見て納得したものだった。量が少量であることもあるが当時は適切な容器も手に入りにくく通常のポリ容器を利用していたと思える。以下のような注意もある【ガソリンは、マイナス40℃でも可燃性蒸気を発生させており、常温では常に引火する可能性があります。静電気火花などのわずかな火種でも引火してしまいます。ポリ容器は電気を通しませんので、ガソリンに溜まった静電気を逃がすことができず、放電して火災を引き起こす危険性があります】。少量・慣れた少人数グループでの行動を前提にしていたのでしょう。
10日行動時の天気図作成は、エスケープルート利用の判断にしたのだろうか、南岳からキレットの通過・北穂高までは、切れた岩場もあったかと思いますが、濃霧の中の行動でさらなる天候の悪化への不安はそれほど大きくなかった気がします。翌日の奥穂高山頂だろうか突然霧が出てきて岩の海老の尻尾が付きどんどん大きくなってきたことを覚えています。
このような記憶がそれなりに積み上がっていくのでしょうか?
コメントありがとうございました。
いろいろ思い出すものですね。槍ケ岳山荘に着いたときは、行動時間が既に9時間になっていたので、かなり疲れていたと思う。できれば明日の朝山頂に登りたいところだが、天気の崩れが気になる。それで天候の崩れがどれぐらいのスピードになるか確認したくて天気図とったと思う。その結果、その日に槍ケ岳山頂に登ることにした。夕方の山頂は思いのほか展望があって、楽しめた記憶がある。それに、ブロッケンの怪を見たのも想い出した。一生懸命写真撮ったけど、その時のネガを紛失したのが残念だ。
次の日の午前の天気図取りは、念のためのような感じだったように思う。
北穂山荘の朝のトラブルは、全く忘れていた。当時ホワイトガソリンを燃料とするホエブスが主流だったけど、灯油を使う携帯コンロもあった。ただ、何と言っても、ホエブスは燃焼力がよかったね。当時でもガソリンスタンドでホワイトガソリンを買うのは、行きなれたスタンドでないと面倒だったことは確かだったが。
涸沢から上高地までは、縦走中いい景色を見すぎたせいか、うんざりするほど長かった記憶が蘇ってきた。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する