もっとも、足尾銅山自体は、昭和48年(1973年)2月に採鉱を停止し、360年余の歴史を閉じていた。しかし、私には忘れがたい思い出のエピソードがあった。
それは、昭和46年(1971年)夏、北海道オホーツク海岸の紋別の牧場へ向かう道中の中湧別の町での出来事である。今から思うと人の心が穏やかで良い時代であったとつくづく思う。何しろ、国鉄職員のKさんは、偶然車中で知り合ったリュックを背負ったみすぼらしい姿の若者を官舎に泊め、心のこもったごちそうまでしてくれたのだった。Kさんは戦後関西から北海道に渡ってきて国鉄に勤めた苦労人。中湧別は定年までの最後の勤務地だという。そんな四方山話の中で、サロマ湖の奥にある栃木集落の人たちが故郷に帰りたいと帰郷運動をしていることを聞かされた。栃木集落は、その地名からも容易に連想できるように、足尾の鉱毒事件によって明治44年に村を追われた人々が入植してできた村である。当時はよくあった話らしいが、彼らが実際に入植した所は約束とは違い悪条件の原野だった。そのような事情も絡み、開拓1世の時代から何度も栃木県知事に「渡良瀬川流域土地貸下請願書」が出されたようだ。この運動は、入植後60余年の年月を経て昭和47年3月に開拓1世の末裔の人たちが栃木県に帰郷することで結末を迎える。その時、実際に帰郷したのは、帰郷請願者13戸のうち6戸であったという。
さて、庚申山、皇海山の登山の思い出である。
当時の暦では10月10日は体育の日だったが、この年は10日が日曜日だったため11日は振替休日だった。この振替休日制度は、私が社会人になった昭和48年に制度化されたもので、山登り大好き人間にとして非常にありがたいものだった。今回は、その連休を利用しての登山である。朝早く東京を立って少しばかり足尾の町を歩いた記憶があるが、渡良瀬川の支流の庚申川沿いの銀山平から庚申山に入山した。
庚申山は、古くからの信仰の山である。「南総里見八犬伝」の舞台にもなったぐらいだから、江戸の町人や江戸近在の農民にもその存在は知られていたことだろう。山道を歩きながら、祈りの気持ちがあったにせよよくもこんな山里離れたところまで歩いてやってきたものだと無性にその心情を思った。記憶の映像はセピア色の写真のようにすっかり薄れてしまったが、その日は、一の鳥居から登山道を水ノ面沢沿いに歩き、猿田彦神社近くの山小屋に泊まった。思うに現在の庚申山荘以前の古い山小屋である。
次の日6時15分に山小屋を出発、直接庚申山(1892m)に登る。そこから駒掛山、渓雲山、地蔵岳、薬師岳、白山、蔵王山、熊野山、剣の山などというピーク名をもつ鋸山11峰と呼ばれる難路を行く。7時50分には薬師岳、8時25分には鋸山(1998m)とかなりのハイピッチで歩く。鋸山からは不動沢のコルに一気にくだり、再び急登の道を登る。9時20分、皇海山(2143.6m)の頂に立った。今でいうクラッシックコースと呼ばれる道を登ったことになる。
山頂は針葉樹の木があって、さほど展望のきくところではなかった。セルフタイマーで記念の写真を撮り、往路を引き返す。途中紅葉・黄葉の木々と岩の景色を楽しみながら庚申山のお山めぐりのコースをたどって、13時10分には山小屋に戻った。山行記録では、ここで小一時間休んでから下山した。15時50分に銀山平着。
(参考資料)
佐呂間町HP「もう一つの栃木」
https://www.town.saroma.hokkaido.jp/shoukai/saromanorekisi.html
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