半世紀前に初めて行った時は、土曜日の午後に名古屋を出発、神崎川(愛知川)の河原でテント泊をして登った。それは、部活動の秋の定例山行であった。今回は、日帰り。最短コースをたどるにしても、夜明けとともに朝明渓谷を出発する必要がある。幸いこのところ晴天の日が続いている。雨乞岳行の3日後に登ることに決定した。
当日、朝明渓谷を午前6時15分に出発。根の平峠を越えて上水晶谷出合からコクイ谷の出合に着く頃に、ようやく四囲の山肌が秋の彩りの鮮やかさを取り戻した。しばらくして小尾根をのぼり、小峠からの尾根道に出て直接イブネ北端を目指す。紅葉・黄葉の尾根をのぼり、シャクナゲ帯を過ぎて、笹原の尾根に出ると、目指すイブネが眼前に横たわり、葉を落とした木々の間から雨乞岳が堂々とした山容を秋空に晒していた。午前9時55分イブネ北端(1154m)に出ると、一度に視界が開け、素晴らしい展望が待っていた。そこにはまるで鈴鹿山地の中心がイブネのような光景だった。足下には、うわさ通りの天上の苔庭園が広がっていた。強く、冷たい風に吹かれながら苔のじゅうたんを縫うようにクラシの方に向かっていくと、寒風の中、凛とした姿でブナの木が立っていた。
半世紀ほど前のあの時はどうだったのか。この山行に参加できなくて1週間後に同じような道を歩いた友人のH君の記憶では、谷尻谷を遡行して稜線に出たそうだ。それはそれで大変な道だったと思うが、私はすっかり記憶が消え失せてしまった。ただ、登り切っただだっ広いフラットな大地は見通しが効かないほど笹が生い茂り、イブネの頂上がどこなのかもわからず、磁石を片手に藪漕ぎした記憶が強い。何とか杉峠にたどり着いた時のほっとした気分をよく覚えている。
西尾寿一著の「鈴鹿の山と谷4」に「クラシ、イブネの茫漠たる笹と萱の原は、大海原のようにゆるやかに起伏しながら西に続き杉峠ノ頭から杉峠に至っている」との一文(P.190)がある。当時の鈴鹿は、竜が岳や雨乞岳もそうだが、笹原が広がっている場所が多くあったので、その分イブネの笹原の印象は弱められたのかもしれない。秋のことである。背丈ほどの笹の原にススキ、カヤの銀色の穂波があちこちに見えたのだろうか、長い年月はいつしかカヤトの原を方向感覚を失いながら彷徨い歩いた幻想へと、私の記憶の糸を導いてしまったようだ。
杉峠には、午前11時17分に着く。あまりに順調なので、紅葉・黄葉の下照る道をゆっくりと根の平峠を越えで朝明に戻ったのだった。高校の時は、この杉峠からコクイ谷出合を経て上水晶谷を国見峠に登り、湯の山に下った。国見峠に着く頃にはとっぷりと日は暮れて、四日市の百万ドルの夜景が見渡せた。安堵感と体力を使い果たした消耗感でどっかっとリュックを投げ下ろす。その時、クラブの顧問の先生が無言でチョコレートをみんなに分けてくれたのだった。確か、朝から14時間にもわたる山行だったと記憶する。
それにしても植生がどうしてこうも激変したのだろうか。鹿が繁殖しすぎたからという説もあるが、笹枯れの原因は果たしてそれだけだろうか。かつてこのあたりは、あちこちに鉱山があった。炭焼きの人びともたくさん山に入ったに違いない。苔庭園の原に生える一本のブナの木を見て、イブネ、クラシには笹の大海原以前の姿はなかったのかと思いをめぐらした。よく見れば、苔のじゅうたんの原も雨で道筋が乱れているところが目立つ。登山者が多くなり、別天地とばかりにテントを張ることが増えれば、何らかの影響を受けるのが自然というものでないかと思えた。
参考1 「鈴鹿の山と谷4」雨乞岳とイブネ付近(P164〜P216 )西尾寿一著 ナカニシヤ出版 平成2年2月
参考2 「イブネ・クラシ ササ枯れ調査5年経過報告」2009年11月23日 あつた勤労者山岳会
http://atsuta-rozan.com/files/sankoki/sasagare/sasagare.html
参考3 「朝明渓谷からイブネ・クラシ 〜立冬の日、秋山終盤戦へ〜」2019年11月8日(金)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2097156.html
【追記】イブネの原風景 2019.12.9
イブネの原風景が気になったので、改めて名古屋市の中央図書館で調べてみた。
幸い、「鈴鹿の山」(中京山岳会編 山と渓谷社 1961年)が収蔵されていた。閲覧すると酸性紙が使われており、傷みが激しい。禁退出どころか、コピーも不可であったのもうなずける。以下、手帳に関係のところを転記した。この「鈴鹿の山」は、当時鈴鹿の山を登る者にとってバイブルのような存在だった。
転記したのは、「54 銚子が口岳から杉峠」の項の一部である。
「5万分の1の図上にある950mの大鞍部ははっきりとわかり、小灌木の中を下ると見上げるようなイブネ岳が大きく前をふさぎ、その高原状の山容は今までのブッシュとはちがって明るい感じを与える。大鞍部からはちょっとした登りで、踏み跡もあまりはっきりしないが、ナタ目のある木があって、ここからまた高原状の高大なススキ原となる。背丈ほど伸びたカヤをかき分けて右側の灌木帯とカヤとの境に沿って歩く。そのうちにイブネ岳の頭の方向へ見当をつけて適当に進まなければならない。いちばん高いところに登り、そこからさらに次の高みに登るとこれがイブネ岳であるが、もちろん三角点も何もない。」
「佐目峠へは、ほとんど高低のない高原状の背をカヤをこぐと20分ほどで灌木帯が現れる。その境目のカヤ原が峠状になっていて、これが佐目峠である。このあたりは踏跡がかすかにあり、カヤの中をしゃにむに下って峠に立つ。道はやがてはっきりと出てきて、炭焼き窯が現れるようになるころにはりっぱになる。」
植生変化の実体験興味深く拝見いたしました。
最近「森博嗣」さんの随筆に、酒は頭がクリアな時間を消費してしまうので費やす金を含めてコストパフォーマンスが悪いと記載されていました。同様に彼は、経験は時間やコストが問題で、経験することによって得るものもあるが、時間・コストなど失うものもあるはずで、経験を第一にするよりいろいろ考えるべきということが正しいと論じています。彼の考えでは、世の中では経験しなくとも大体理解できるものが多数で、経験するほどには充分にはわからないかもしれないがなにより時間が節約できるメリットが大きいそうです。
酒については自己反省も含めて全くその通りですが、経験については経験によって考える課題を目覚めさせる効用もあるかと考え始めました。
なかなか、難問ですね。お答えになっているか分かりませんが、考えたことを記してみました。
未来が見通せない不確定な時代は、経験知の限界が意識されることが多い。しかし一方で、現代は、お金や時間といったコストをかけてでも非日常的な体験をしたいという意欲の高い世の中でもありますね。
山登りも、趣味である限りにおいては、お金や時間といったコストという要素が付きまといますが、山に向き合う直接的な体験を通じて何を見いだそうとするかによって、それぞれの人が山登りに与える価値は変わってくるのでないでしょうか。
もちろん、木地師や炭焼きや鉱山労働者など山を生業の場にしていた人々にとっては、当然のことながら山登りへのコスト意識などということは無縁なことであったでしょう。それだからこそ、山に暮らした人々の痕跡に出会ったとき、彼らの暮らしの喜怒哀楽に思いを馳せることに新鮮な楽しみを感じます。
今回、日記に「追憶の山旅」というジャンルを新しく設けたのは、昔の山行で得た体験の質を再訪の山旅で改めて評価してみたいと思ったからです。そこで新しい何かを見つけ出せたら、山旅をより豊かなものにしてくれるに違いないと考えています。
かつての山を再訪し植生変化を実体験したということに、改めて体験の機会を得たことが貴重なのではないかと感じた次第です。山登りもサービス産業化し身繕い・行動なども含めた教育は進歩したように感じています。教育はある意味、事前訓練し想定外のことを減らすことでしょう。またサービス産業化することによって、様々なことに容易に触れる機会が提供されてきたかと思います。一方ちょっとした新鮮な体験を実感する機会が増えてきたわけではないと感じている次第です。
生業という概念にも興味を惹かれています。かつての生業を理解し、今の時代環境に応じた生業の位置付けに興味が惹かれています。
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