鈴鹿の山は、落葉広葉樹の森が多い。広葉樹の樹皮は、ブナやクヌギなら灰褐色、イタヤカエデなら暗灰色、ヒメシャラなら淡赤褐色と微妙に色合い違う。その色彩の違いが素人目にも判るのは、葉を落とした冬である。それが林になり、森になると混交色となり微妙な色合いを生む。
雪が舞い散れば、一層鮮やかさを見せる。雪を積もらせる尾根と支尾根が織りなす襞がその色合いに濃淡をつけ、青空との際には独特の輪郭を与える。それは、自然の風景というより、灰茶色の柔らかな筆遣いの山水画を思わせた。初めての雪山の新鮮な発見だった。
高校2年の冬2月、鈴鹿の青山渓谷から銚子谷に入り、一泊。雪の渓谷を鈴鹿の主稜線まで詰めて、静ヶ岳、竜ヶ岳と歩き、宇賀渓に下りた。
入山日は、小雪が舞う、この季節らしい天気だった。
銚子谷は、まだ雪で埋め尽くされてはいない。山岳部員のひとりが飛び石伝いに渡渉するとき、ぽっちゃりと流れの中に足を踏み外してしまったが、水量が少なく大事に至らなかったことを鮮明に記憶している。もう一つ忘れがたいことは、銚子谷の大滝を手前右岸から大きく高巻いだが、再び沢に降り立つのに苦労したことだ。確か、最後はザイルを取り出して、数メートルずるずると下りた。
この時、稜線で撮った一枚の写真が残っている。ヤッケも着ずに、厚手の上着だけといういいで立ちで立っているところを見ると、2日目は曇天ながら風は強くなかったようだ。母が編んでくれた防寒帽をかぶっている。この帽子は、セーターをほどいた毛糸をいくつもいくつも繋いで作られたもので、裏返すと糸のつなぎ目がいっぱいあった。最初、母から帽子を手渡された時には、これはちょっと格好悪いなと内心思ったが、口には出さなかった。そんな思い出の帽子だからだろう、次第に愛着がわいてきて捨てがたく、穴が大きくあくまで長い間使い続けた。
春の南アでの合宿を控えてピッケルもアイゼンも買いそろえたのだろうか、得意げにピッケルを持って、オーバーシューズを履いた上からアイゼンをつけてポーズをとっている。吹きさらしの稜線の雪は、かなりしまっていたと思われる。
聞くところによれば、銚子谷は、今では昔のように谷をたどることはできないという。何度も大規模な土砂災害に見舞われ、すっかり荒れ果て地形も大きく変わってしまったそうだ。
(参考)
昭和42年(1967年)2月11日〜12日
第1日目 伊勢治田駅→青山渓谷→銚子谷 テント泊
第2日目 銚子谷から主稜線へ→静ヶ岳→竜ヶ岳→宇賀渓
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