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2月初め、比良山系の最高峰の武奈ヶ岳にテントをもって泊りがけで出かける。当時、北比良峠には比良山スキー場があって、ゲレンデスキーも大いに楽しめた。次の週には、蓬莱山から、これもテント泊で花折峠までスキーで稜線歩きをした。こちらも、山頂部にはびわ湖バレイスキー場があったので、スキーの練習は十分できた。しかし、比良の雪は、新潟の雪とは雪質が違うし、スキーの技量も低い我々には、スキー山行に見合った快適さを享受するにはいささか程遠い。スキーをつけて下りきるのに四苦八苦、最後は藪スキーとなったのには閉口した。
そんな折、学年末試験が終わったら兵庫県と鳥取県境の氷ノ山にスキー山行に行こうという話が持ち上がった。「氷ノ山」、山の名前からして雪が多そうである。これは願ったりかなったりとばかり、喜び勇んで参加した。以下、その思い出をつづってみた。
参加メンバーは、関西出身の2人の先輩に同輩4人の合計6人。これならテント2張りで十分だ。
出発当日、それぞれ下宿先から最終の市電や市バスに乗って深夜の京都駅に集合する。予定した稜線上のテントサイトにたどり着くためには、朝できるだけ早い時間から登り始める必要がある。そのためには、ま夜中のとんでもない時間に京都駅を通過する東京発の夜行急行に乗る以外に選択肢はないのだった。当時の山陰本線は電化前、便数も少なく時間もかかったのである。
3月初めの駅構内は、人影もなく冷え冷えとしていた。ここで夜を徹してというのは、いささか大げさだが、ひたすら列車を待つことになった。あみだくじで荷物の見張り役という貧乏くじを引いたH君の回想によると、他のメンバーはH君を置き去りにして、皆で腹ごしらえにラーメンを食べに出かけてしまったという。そのため、彼がいざ食べに行こうとした時分には、夜のとばりに街の明かりもすっかり消えて、ひとり食いっぱぐれたという。なるほど、人間というものは不運なことは半世紀近くたっても決して忘れないものと見えるが、こちらはそんなこと全く記憶していないのだから、人間とは実に勝手なものである。
福知山で乗り換えて、八鹿の駅に着いたのは、朝の7時10分だった。ほとんど眠っていないが、誰も気にしない。ただ、駅前は、冷たい小雨が路面を濡らしていたので、いささか元気が出ないだけだ。
駅前から全但バスで氷ノ山国際スキー場のある福定に向かう。ここから、東尾根コースをたどった。天気は、昼頃まで雪がぱらつくあいにくの天候だったが、午前11時には尾根の比較的平らな地点まで登り着いた。ここまで来ると雪も十分あった。スキーをつけて千本杉あたりまで登って行って、宿営した。
次の日は、いたってのんびりとしたものだ。天気は、それほど悪くはなく、頂上まで偵察がてら出かけて、後はスキーの練習に明け暮れる。
3日目は、朝6時に起床。ところが、撤収に手間取って出発は10時になってしまった。ここから山頂には行かず、トラバース気味に県境尾根に向かう。三の丸に着いたのが、11時45分。さらに戸倉峠の方に尾根伝いに下りていき、午後2時ごろから東南東方向に延びる支尾根を坂の谷登山口手前付近を目指して下っていく。
標高差にして400mぐらいだが、下れば下るほど雪質は悪くなるし、ブッシュもでてくるので、思った以上に時間がかかった。ようやくのことで国道29号に降り立ったのは、午後5時だった。
山峡ではそろそろ暮れなずみ始めるころ合いで、次第に冷え込んでくるのが肌で感じられる。もう通過する車両もわずかだが、そこは、なんといっても一級国道である。鳥取方面から戸倉峠のトンネルを抜けてダンプが一台やってきた。ここぞとばかりに、慌てて手をあげる。荷台は幸いのことに空だったので、どやどやと乗り込む。風が冷たいなどとぜいたくを言っては罰が当たるというものだ。姫路行きのバスに乗るのに都合のよさそうなところまで運んでもらった。実にありがたいことであった。
(昭和45年(1970年)3月1日〜3月3日の山行記録から)
(参考)fengsanのヤマレコ日記「初めての山スキー」
https://www.yamareco.com/modules/diary/356744-detail-170005
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