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GWに剣山からプチ縦走しましたけど、
去年の5月に三嶺〜剣山を縦走した方のレコを見直してみたら、
山頂の標識が「次郎笈」「丸石」「高ノ瀬」とも変わってました。
そういうものなんですかね?
冬に雪が積もってダメになっちゃったりもするのかな?
katatumuriさんの2014年5/29〜5/31「三嶺〜四国剣山縦走2泊3日」
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-457719.html
私の2015年5/3〜5/5「剣山〜次郎笈〜丸石〜高ノ瀬〜奥祖谷二重かずら橋」
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-633440.html
そういえば最近の質問箱で「山頂の標識について」の質問を読みましたが
http://www.yamareco.com/modules/plzXoo/index.php?action=detail&qid=2925
個人あるいは山岳会などで登頂記念に標識を付けたりすることがあるようですね。
私には理解しがたい行為です(-_-;)
山は私物ではないのに何故…?
里山などでは、誰かが近道を図示してくれていたり、
オフィシャルな標識がわかりにくい場合にペンで添え書きがしてあったりしますが
これはまだ善意でやっているようだし、正直ありがたい面もあるのですが…。
個人的には、「登頂記念」という発想がわかりません。
だって自分自身の記憶があるじゃん?
写真だって撮るだろうに、何でそれで満足できないのかしら?
人に知らせる必要もないことだし、事実なら証拠なんていらないでしょ。
別に自分が世界で初めてその山に登ったとか、
自分で登山道を切り開いたとかいうわけでもないのに。
山に登れば嬉しい。
「イェーイ、登ったぜ!」「ばんざーい」って私も思います。
でも、その証拠をその場に残して来たり、あるいは何かを持って帰ったり、
そういう気持ちは全然理解できません。
石ころだって花だって、そこにあるから美しいのだから。
撮っていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ。
私はいつも大量に写真を撮りますが、家に帰って見返すことはかなり少ないです。
(ヤマレコはよく見てしまいますが…(-_-;)

いつも、あの時は楽しかったな、あの景色は素晴らしかったなと、
頭の中で記憶を反芻するだけで十分楽しく、気持ちが豊かになるからです。
いつか年を取って、すべてを忘れてしまう時が来ても、
「自分がその山に登った」という事実は消えてなくなることはないはずです。
こんにちは。
本当にそうですね。全く同感です。
「自分がその山に登ったということ」は、仮に写真に撮らなくても記録文に書かなくても、仮にボケ老人になってしまって登ったことすら忘れてしまっても、登ったということは事実まぎれもないことですね。仮に証拠が無くても。
それを自分のエゴのために登頂記念プレートを作って置いておく発想は発想自体が貧しいし、誰も見ていなければ山にゴミを捨てるのと同じ行為と思います。
たしかに山頂標識は無ければ寂しいと感じる場合もありますが、たとえばエベレストの山頂に「Mt.エベレスト8848m」なんて標識が立っていたら興ざめですよね。
とても良い日記なのにどなたもコメントがないのでコメントさせていただきました。
若い頃は超軽量化のためにカメラを持たないことが多かったので登頂写真が少ないasaiでした(これはこれで寂しいですが)
(^^)こんにちは。コメントありがとうございます。
まぁ私もヤマレコで記録を残しているのだから、
そこに突っ込んでくる方もいるかも…と心配していました(^_^;)笑
でも山に自分のものを置いて来るなんて絶対おかしいと思うんですよね…。
わざわ登頂プレートを付けてこなくても、
登ったことは自分が知ってる、そして山が知ってる!
そう思った方がロマンがありますよね(^-^)
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