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北海道に生まれ育ったり、北海道に住んでいる人間にはわかりにくいのだが、どうやら“内地”の人間の中には、未だに北海道にスキーに行くこと、北海道のパウダースノーを滑ることに対して、まるで外国へでも行くかのような、独特の憧れにも似た感情を抱いている人がいるらしい。
こうした感覚・感情は、最近に始まったことではなく、80年以上前の昭和初期には既に形成されていたようだ。その頃のスキーといえばイコール山スキーだったわけだが、北海道への交通の便は現在に比べて格段に悪かったはずだから、こうした憧憬の感情も、現在に比べてはるかに強かっただろうとは容易に想像される。
以下の二つの文章は、当時の北海道スキーツアー紀行から、札幌へ着くまでのくだりを抜粋したもの。そこに表われる昂揚感からは、メディアが未発達で情報も少なかった当時、北海道にスキーに行くこと、いや冬の北海道に行くこと自体が、どれだけワクワクさせられるものだったかが伝わってくる。
一つ目の文章「北海道のスキー地を行く」は、田部重治編「スキーの山旅」(昭和5=1930年)に収録されたもので、著者は角田吉夫。二つ目の文章「北海道のスキー場と山の旅」は東鐵スキー山岳部(TTSV・東鉄は東京鉄道局=現在のJR)の年報第2号(昭和8=1933年)に載ったもので、著者は山野冬夫。なお“スキー場”といっても、現在のようなリフトのあるスキー場のことではない
北海道のスキー地を行く
ーー雪の札幌・手稲山・空沼岳より中山峠へ・ヘルヴェチヤヒュッテ行ーー
雪の札幌
鈍重な灰色の雪もよひの雲が、津軽の海に低く垂れ込めてゐる。軈(やが)て夕闇も迫るかと思はれるばかりの空模様ーー一九三〇年一月三日の朝。青森の阜頭より翔鳳丸に乗る。定刻のドラの音が船内に鳴り響くと、巨大なる船躯は引船に導かれて、静かに青森の港を離れた。憧憬の雪の北海道、スキーの都札幌、粉雪の舞ふ楽土へ、歓喜に満ち々々た身をのせて、船は刻々に近づいて行く。
(中略)
函館の港に入る。阜頭の白壁の倉庫が先づ目に映ずる。港を囲む緩やかな斜面には人家が配列よく並んでゐる。後方の丘陵は白雪の装ひをこらし、模糊として霞んでゐる。
汽車が大沼に沿うて走る時、雪雲の切目から強い太陽の光を受けた。駒ヶ岳の尖頂を雲間に仰いでは、歓びの瞳を輝す。
又長萬部の驛に停車中、プラットフォームに積る雪に初めての足跡を刻む。踏みしめる足下に、粉雪のキュー・キューと軋む、奇異な音にまで耳を傾けては喜ぶ。
夜の札幌驛頭に立つ、一月三日午后十時三十分。明るい電燈の光に浮び出た札幌の市街、雪の都。驛前に客を待つ數臺の馬橇からは、耳新らしい鈴の音を傳へて来る。アカシヤの並木は、夏の面影もなく、淋しい。
(後略)
北海道のスキー場と山の旅
(前略)
こうして富士に新雪が来り化粧を凝らす頃北の國々も漸次雪の洗禮をうけ、軈(やが)て南へ南へとそれは及んでくる。
暫次日本の細長い大半は白い雪の層の下に隠れてしまう。此頃都の此處彼處(ここかしこ)新聞の隅々に至るまで、スキー用品の陳列や繪で彩られてゆく。
映畫會もある講演會も毎日の様にある。
ヒューと言ふ十二月の寒風が都の町々を御歳暮の廣告紙をバラバラ道の片隅に送りながら通る時、益々若者の胸は高鳴り、食堂に喫茶時に耳に入るものはスキールートの話ならざるはない。
北海道へ行くことになつたといつたら。風邪を引かない様にー或は凍傷にかゝらない様にーねなんて友は言つて呉れた。眞の友情からである。
(中略)
實際零下二十度と言つても室内は溫度を保つだけの装置なり設備があつて、寧ろ暖さを如何にして調節するかを苦心する嘘の様なことが眞實である、北海道の文化は東京と少しも變るところがない。
中心地札幌は東京の文化を其儘(そのまま)ーー東北を越えて移動せしめた様なものである。行つて見て始めてさこそと頷かれる。
或る人は言つた。北海道くんだりまで一人でよくスキーに行きますねーーだつて。
夜行列車の寝臺を一晩利用すれば翌日の夕方には彼の黒ビールとスキーの都札幌驛に着くことが出来、此處にもネオンの影には東京と同じに彼女の躍る艶やかな姿を見止めることができよう。
雪國即ち銀雪上の交通は至る所馬橇と言ふ便利なものが發達していて、リンリンと胸に鈴の音を響かせ堅い雪道も何のその左に右に人や荷物を運搬して行く。
晴天の朝など蹄で蹴られる雪は銀鱗の如く、ひらひらと陽光に躍つては光の中に解け込んで行く、えも言はれぬ光景は出現する。
(中略)
スキーヤーとして一度は此の粉雪に包まれおほせる北海道を訪れてみるがよい、
ドライパウダースノーの煙に巻きこまれながらウツドスキーイングの快適さは想像以上である。
大陸的にして内地の様にこせこせした處のないこの地では思ふ様快適なスキーゲレンデに遊ぶことができる。是非一度でよい行かれんことを御薦めする。
二月の中旬の最も寒さの強い時これが果して雪であるかと疑はしむまでの細い灰に近い粉雪がある、灰である。北海道全道は大きな一つのスキーゲレンデに外ならない。
(後略)
kennさんへ
市内でときどきやってる古本市で入手されたんですか? それともお父様の?
札幌も古本屋がすっかり消えてしまいあmした。
>踏みしめる足下に、粉雪のキュー・キューと軋む、奇異な音にまで耳を傾けては喜ぶ。
初体験のときは、興味深かった音でした。
内地の里の雪では体験できない。
>スキーの都札幌
手稲だと、山の帰りに駅前近くまで滑降できましたね。
最初の記録は、全部読んでみたいです。
けんさん
ぼくも信州→北海道に山登りのために受験で行ったようなものですから、この旅情、よくわかりますね。
延々汽車に乗って青森、連絡船に乗って函館上陸、長万部越えると植生や森の様相がどんどん外国になって来て、雪に埋もれた札幌へ。こりゃもう受験どころじゃないですわ!スキー持って行ったやつもいましたね。
飛行機や青函トンネルでピューンになる前の、ぼくはぎりぎり最後の世代でしょうか。
北海道への憧れと言えば、雪印バターの紙の箱の裏にあった水彩画風の牧場の画とか、北の国からというドラマが当時流行っていました。「あーあー、あああああー」というの。
>tanigawaさん
2冊とも東京の古本屋で買ったものです。後者は神田・悠久堂。札幌は石川書店が廃業してしまいましたが、山の本を多く扱っているところとしては、北大そばの南陽堂やサッポロ堂、大通西19丁目の並木書店、それに店舗のない花島書店などが健在です。
子供の頃は家から荒井山スキー場まで滑っていったりしていました。最近も、山の帰りはついつい車道滑りしてしまいます。平和の滝から、永峰橋あたりまでとか
では「北海道のスキー地を行く」はご希望に応えて、そのうちに全文掲載します。当時は豊平川上流の漁入沢出合付近に二股小屋があったので、この小屋を利用して空沼岳-狭薄山-二股小屋-中山峠という、現在はほとんどトレースされることのないルートを行っていたりします。このルートは一度行ってみたいものです。
実はこの本はよく読んでいないのですが、他にも上信越や東北の様々な山スキー紀行が載っています。
>yoneyamaさん
青函連絡船と鉄道の旅は私もいろいろ思い出があります。逆コースですが。
雪印バターの絵はよくわからないのですが、
北海道の観光イメージの確立に寄与したデザイナーに
栗谷川健一という人がいますね。
彼のポスターを見ると、とてもエキゾチックなのに
そこに懐かしさを感じます。
「北の国から」は観ていなかったので
全然思い入れがないのですが、
僕らの世代の人間でも好きな人は結構多いですね。
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