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今日は京都御所へ。
ゴールデンウイークでお天気も良いのに人通りは少ない。
神泉苑の前を通りかかると神泉苑祭のポスターが・・・。
行きたいけれど三密を避けて行かない(-_-;)
京都御所で朝食のつもり。コンビニでサンドイッチを買った。
しかし京都御苑での飲食は禁止されていた(-_-;)
鴨川の河原で食事。
帰りも京都御所を通って帰る。
約18000歩
コロナ禍で自宅謹慎(-_-;)
ちょこっとお勉強!
以下京都検定テキストと過去問から・・・。
■京都御所
京都御所
(上京区京都御苑)
現在、慣用的に「御所」といえば、鳥丸通、今出川通、寺町通、丸太町通の各通に囲まれた全域を指しているようだが、それは京都御苑を示す区域であり、その京都御苑の中に京都御所・大宮御所・仙洞御所一京都迎賓館などが存在する。
平安京が営まれた当初の大内裏は、現在の千本丸太町付近に位置しており、内野児童公園内に、大極殿跡を示す碑が立っている。しかし、天徳四年(九六〇)の炎上以来、大内裏は度重なる類焼のため、天皇は公家の邸宅を借りるという現状であった(これを「里内裏」と称した)。
鎌倉時代初期の嘉禄三年(安貞元年・一二二七)四月に類焼して以降、ついに再建されることはなかった。大内裏周辺の官衙建物も同様に廃絶し、大内裏跡は荒廃して内野と呼ばれるようになった。この内野の地は、豊臣秀吉の聚楽第)築造によって脚光を浴びるまで、『今昔物語集』にも妖怪奇談の舞台として取り上げられるほどの寂しい土地柄となっていったのである。
一方、先述した里内裏だが、元弘元年(元徳三年・一三三一)九月、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が、里内裏である土御門東洞院で即位し、さらに明徳三年(一三九二)、後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に渡して以降、南北両朝が統一され、ここに土御門東洞院内裏が、長く皇居として定着することになった。これが現在の京都御所の前身となる。
当初の御所の規模は、現在より遥かに小規模で、方一町の敷地の一部に紫震殿・清涼殿兼用の建物があったという。その後、応永八年(一四〇一)にこの内裏も焼け、翌年の再建時に敷地は南に拡張された。その後も応仁・文明の乱で荒廃するなど、順調ではなかった。再び、内裏が復興に向かうのは、戦国時代から近世に入ってからである。その先駆けとなったのは、織田家であった。天文十二年(一五四三)、織田信長の父信秀が後奈良天皇の要請に応じて内裏修理料四千貫を献上したことに始まり、以後、織田信長、豊臣秀吉の時代に各々改築が行われた。
その動きは徳川幕府の時代にも引き継がれ、元和六年(一六二○)の東福門院和子(徳川和子)の後水尾天皇への入内の前年にも、大規模な拡張工事が実施されている。その後は、火災炎上と再建とを繰り返したが、天明八年(一七八八)の京都大火後、いちはやく幕府は老中松平定信に内裏造営を命じた。この時の工事は寛政元年(一七八九)から翌二年にかけて行われたが、定信は、当時の著名な有職故実家裏松固禅(光世)が作成した『大内裏図考証』に基づき、古制にならって復元した。この時の殿舎は安政元年(一八五四)に焼けるが、翌二年、幕府は先の寛政度にならって再興した。現在の御所は、この時にほぼ整っている。その境域は東西約二百五十メートル、南北約四百五十メートルである。
明治二年(一八六九)、事実上の東京遷都が行われると、御所周辺の宮家や公家屋敷も取り壊され、苑地となった。御苑と御所は宮内庁の所管であったが、御苑だけは昭和二十四年(一九四九)、東京の皇居外苑、新宿御苑とともに、国民公園として厚生省の所管に移され、さらに同四十六年環境庁の発足とともに同庁の所管となった(現環境省)。現在御苑は、四季折々の樹木や花々で彩られ、カメラマンや親子連れが訪れ、またジョギングのコースなどとして、市民に親しまれている。
参観は通常、御所西方の宜秋門から御車寄、日華門、紫震殿、清涼殿、小御所、御池庭といったコースがとられる。殿内には人形や調度晶が展示されており、当時の宮廷生活の一端を見ることができる。
□以下過去問から
〇明治2年(1869)、現在の京都御苑内にあった私邸に私塾立命館を開設し、のちに内閣総理大臣にもなった人物は誰か。
〇平安中期以降、内裏が焼失した時などに、天皇が一時的に居住した仮皇居を( )という。
〇元弘元年=元徳3年(1331)、光厳天皇が即位した里内裏で、現在の京都御所の前身となったのはどれか。
〇京都御所の歴史については度重なる類焼による変遷をたどっており、現在の京都御所は里内裏のひとつであった「( )」が前身となっている。
〇鎌倉末期、光厳天皇が仮御所とした土御門西洞院殿が、現在の京都御所の前身となった。このように天皇が一時的に用いた仮皇居を何というか。
〇平成17年(2005)に開館した京都迎賓館の庭園の設計には、「庭と建物を一体につくる」という考え方である「( )」が取り入れられている。
〇京都御苑の北西部にある糸桜は、五摂家のひとつであった( )の邸宅跡に植えられており、桜の季節にはそよ風に揺れる様は絶好の花見スポットとなっている。
〇京都御苑内の西園寺家の邸宅跡にある( )は、弁財天を祀っていることから「御所の弁天さん」と呼ばれる。
〇現在は京都御苑の堺町御門の北側に碑が立ち、幕末の禁門の変(蛤御門の変)で、久坂玄瑞ら長州藩士が朝廷へ嘆願するために侵入した摂関家の邸宅は、五摂家のうちどれか。
〇京都御所について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。
☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
•現在の京都御所の前身となった里内裏・正門・正殿の名称
•寛政再建時の責任者となった幕府老中
•慶応3年(1867)に徳川氏の処分が議論された有名な会議名
〇京都御所は天明の大火で類焼し、寛政元年(1789)から翌2年にかけて再建された。この工事を指揮した幕府老中は誰か。
〇 寛政元年(1789)から翌2年にかけて行われた京都御所の造営は、古制に倣って復元することが第一とされた。その際に参考にした『大内裏図考証』の作者は誰か。
〇市民の憩いの場として親しまれている京都御苑を所管するのはどこか。
〇京都御所の紫宸殿(ししんでん)南庭に植えられている樹木は、左近の桜と右近の何か。
〇京都御所の寛政度に行われた造営は、有職故実家の( )が作成した『大内裏図考証』に基づいて復元された。
〇応仁の乱により荒廃し、戦国時代から近世にかけて、織田信長の父である( )が後奈良天皇の要請に応じて内裏修理費を献上したほか、織田信長、豊臣秀吉の時代にそれぞれ改築が行われ、徳川幕府に引き継がれた。
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