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最近運動不足、ちょこっと朝の散歩♫
京都検定がらみ(-_-;)
過去問ですからもう出題されないと思いますが・・・。
[問題]
・・・(略)
千本三条の交差点の北東付近は、在原行平が創設した貴族の教育機関である( )があったところで、その跡を示す石碑がある。
・・・(略)
[解説]
律令制の下で式部省が直轄する官僚育成機関として大学寮が作られ、学生は直曹に寄宿していた。平安時代初期に藤原氏が勧学院(写真2)を設立し大学別曹としたのを機に、有力氏族が大学別曹を設立した。元慶5年(881)、在原行平は、勧学院にならい奨学院(写真1)を現在の千本三条の交差点付近にあたる左京三条、大学寮の南、勧学院の西に創建した。皇親諸王、皇別氏族(源氏、平氏、在原氏など)一族の子弟が利用した。昌泰3年(900)に大学寮南曹となり、勧学院とならび「南曹の二窓」とよばれた。
[答]
奨学院
交差点近くのコンビニの敷地にありますが石柱が埋まっています(-_-;)
二文字(院址)も・・・。
センスがないなぁ(怒)
[問題]
・・・(略)
千本三条の交差点から南東方向に進んでいる道は( )通である。バス路線は道なりにそちらへと進み四条大宮の方へと向かっているが、干本通は真っ直ぐ南に、一方通行の細い道となって続いている。北大路から三条の間の道幅の広い道路は、京都市電千本線の設置で拡幅されたものであって、三条以南の細い道幅こそが拡幅以前のものである。
・・・(略)
[解説]
千本通は三条通の交差点からまっすぐに南下し、細い通りとなり、材木商街を抜けて四条通を越えて南下していく。後院通は千本通三条交差点から千本通と別れて斜めに走り、千本通三条交差点から四条通まで南下する1キロにも満たない通りである。明治時代の京都三大事業において、路面電車が敷かれるときに、四条大宮より南の大宮通を拡張した。それに連結させる通りとして、京都では珍しい斜めの通りが造られた。市電開通による町の分断に対して反対運動があったともいわれている。ここに京都市電・千本大宮線が運行し、路線は四条大宮から北区の紫野を結んでいた。
[答]
後院通り
↑
なんて読むのかぁ?
こういんどおり
表示はKoin dori St.(-_-;)
ご近所には名所旧跡いっぱい
退屈しません♫
ブログは
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