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(写真1)
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/e7d27483735ea3c2bdc4630f2241cf88
嵐山の葛野大堰のお話もありました。
古墳ができる時期・・・。
新しい京都検定のテキストに”太秦と秦氏”の項目が追加されました
太秦と秦氏P28
古代の山城地方に住した多くの渡来系氏族のうち、葛野地域を拠点とした秦氏は、高度な知識と技術をもって 土地開発や産業振興を進め、長岡京や平安京の造営にも関わったとされ、その勢力を誇示した。
嵐山の葛野大堰はその事績を物語るもので、桂川の水流を制御して葛野を農耕可能な地域にした。
その秦氏が拠点とした太秦の中心にある広隆寺(右京区太秦蜂岡町)は、推古天皇十一年(六〇三)に 秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した寺院で、古くは蜂岡寺といい、国宝彫刻第一号に指定された半跏思惟の姿の弥勒菩薩像(飛鳥時代)があることでも知られる。
また その東には大酒神社(右京区太秦東蜂岡町)や蚕の社(→87頁)、南西には秦氏の首長級の墓と推察される蛇塚古墳(右京区太秦面影町/国指定史跡) など、太秦には秦氏に縁の史跡が数々残されている。
(京都検定新テキスト)
しかし秦氏と縁の深い”広隆寺”の項目が消えたのはちょっと意外です(-_-;)
手違い?まさか。意図的?
あの有名な日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像があるお寺なのに!
広隆寺(右京区太秦蜂岡町)P109
本尊 聖徳太子
真言宗単立寺院。
山号は蜂岡山。
法隆寺・四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
古くは蜂岡寺・秦公寺といい、「太秦の太子堂」とも呼ばれる。
推古天皇十一年(六〇三)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、本尊として建立した。
弘仁九年(八一八)と久安六年(一一五〇)の火災により伽藍を焼失したが、創建以来の仏像のほとんどは火災を免れた。
承和三年(八三六)には中興の祖とする道昌が再興に着手。
のち本尊は創建当初の弥勒菩薩から薬師如来となり、さらに聖徳太子像に代わった。
境内西北隅にある桂宮院は奥院とも称し、桂宮院本堂(国宝)は建長三年(一二五一)以前の建築。
永万元年(一一六五)再建の講堂(重要文化財)は丹塗りのため赤堂とも呼ばれている。
仏像では、飛鳥時代を代表する遺品で日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像が著名。
また、一見泣いているように見える顔立ちから「泣き弥勒」の名で親しまれている菩薩像も国宝。
他に定朝の弟子長勢の作と伝えられる十二神将像、不空羂索観音立像、千手観音立像(いずれも国宝)などがある。
↓国宝建築183頁、弥勒菩薩像(京都の彫刻)217頁、阿弥陀如来坐像(京都の彫刻)218頁、聖徳太子御火焚祭296頁
(京都検定テキスト旧版)
そのあと創生館で遊んで帰りました
(写真2)
引き続き企画展が開催されています
(写真3)
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/869c15f96884a81db4ad7e1e0d89bd4f
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