新潟では、弥生時代後期から僅かではあるが鉄器が出土し始める。解説では中期までは遡らないとしている。そこから弥生時代後期末まで、僅かに52点の鉄器がこれまで出土している。一方、同時期の石器の出土数、状況を見ると中期までは一遺跡に平均四百五十以上の石器が出土するのに対し、後期では、百五十に激減しており、鉄器化が進んだと解釈される。鉄器は貴重品のため、刃がこぼれたら研いで再利用し、使い尽くしたと考えられる。また、錆びてバラバラになって見えなくなる可能性もある。
北陸西部の石川、福井県エリアでは、弥生時代中期半ば(2100年前頃)までには鑿、鏨、鉄斧などの木工用具類から鉄器が導入され、後期中葉(1900年前頃)には、鋤先、鍬、鎌などの農機具も出土し、ほぼ全ての利器が鉄器化した。また、石川では、中期終わり頃簡単な鍛冶技術が導入され、鉄器製作も始まった。この技術は、山陰のものと似ており、日本海沿岸をリレー方式で伝播したのかも知れない。新潟では後期(2000年前)以降に鉄器化が始まった。
石器から見ると、砥石の数は微増だが、仕上げ砥石の増加や金属器の刃物の先端を研いだと見られる痕跡、鑿状鉄製工具による加工痕跡のある砥石、針状鉄製品との接触による凹みのある砥石などが確認されて、また軽石製品や磨き石類の割合も増加している。
新潟県域は、環濠集落や高地性集落の日本海側の北限で、弥生時代の様々な文化要素の北限でもあった。
古津八幡山遺跡の鉄器としては、弥生時代後期ぜんはんの鉄剣、鉄鏃一点ずつ、後期後半の鉄鏃一点、末葉のヤリガンナ一点の4点。実際にはもっと多くあったであろうと想像される。鉄器を磨いたであろう砥石や磨石、軽石などは、後期になると比率が増え、針状の鉄器を研磨して凹みができた砥石などが見つかっている。また、鑿状鉄製工具による加工痕跡がある砥石も見つかっているようだ。会場には新潟大学のの森先生による荒砥から仕上げ砥石の紙ヤスリを使った当時の砥石の目の推定品も展示してあった。
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