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展示は、縄文後期、大木10式併行期から、十腰内1a.b、四ツ石式までを扱っている。今回の企画展のハイライトは3900年前頃の土器棺墓で、縄文美子と名付けられた女性人骨と土器棺だ。最近この土器を小牧野3類とする案が提唱されているそうだ。縄文時代後期の土器棺墓は、北東北に多く、関東にもわずかだが類例があるらしい。私は西日本の例を滋賀県かどこかで見た記憶があるが、館長は西日本の事例は調べていないようだった。縄文時代のお墓の多くは土葬だが、土器棺墓の場合は、土葬した人骨をtごり出してあらためて土器棺に収めて埋葬する「再葬墓」であるようだ。西日本では主に縄文晩期になって登場するように思える。そうだとすればこの東北北部が土器棺の再葬墓の起源地か?
弥生時代の甕棺墓は朝鮮半島由来だが、土器棺墓は列島独特の「再葬墓」で骨を取り出して丁寧に「洗骨」して土器に収めたらしい。
青森県史によれば、
「土器棺墓」
334 〜 336 / 425ページ
東北北部の円筒土器の世界では、八戸市蟹沢遺跡などの例のごとく、埋設された土器のなかから胎児骨が発見され(73)、また三内丸山遺跡では中期に入ると数百の埋設土器がおもに「北の谷」の西北から出土している。幼くして亡くなった乳児または胎児を、土器のなかに入れて埋葬したのであろうか。直立・倒立をさせた土器の底を抜くか、底近くに孔を開けて容器としての実用性を失わせ、丸い石を一〜二個抱かせて埋設したもののようである。三内丸山遺跡の調査員によると、土壙墓(大人の墓)一〇〇に対して埋設土器(子供の墓)が八〇〇ほどとのことであり(74)、その比率は一対八と驚くほど子供の死亡率が高い。恐らく衛生状態は現代と比べれば最悪であり、医療設備の無い時代であれば子供の死亡率が高いのは当然と思われ、やむをえないことであったのかも知れない。
土器を使ったいわゆる土器棺墓は、縄文後期になると数は中期に比べて少なくなるが、遺体を入れた土器棺も特別に作られ、埋葬の儀式を経て永遠の眠りについたのであったろう。青森県では奥羽脊梁山脈の周縁台地にこのような墓地がみられ、南の岩手県は北部の馬淵(まべち)川流域に分布するようである。
一般に甕棺とも俗称されるこの種のものは、高さが約六〇センチメートル内外、口径が二〇センチメートルほどの壺型をなす土器で、口の下の方に把手をもつものも多く、器面には沈線で描かれた入組状・同心円方形区画などの文様をもち、なかには器面に漆またはベンガラ・朱を塗ったものもある。大正時代の半ばに浪岡町北中野の天狗岱で最初に発見された。埋葬するとき土器の口径から遺体をそのまま入れることは不可能であり、東南アジアやわが国の南西諸島にみられた、洗骨(せんこつ)の儀式を経て再埋葬したものではないかとの見解が示され(75)、その後同じような遺構・遺物の発見においても、同様の風習を考慮に入れて調査し、論述がなされてきたのである。確かに口径の大きさをもとに考えると、遺体をバラバラにしなければ収納は不可能であろうし、一方では死者を丁重に葬っている状態を考えると、遺体を冒瀆(ぼうとく)するような行為は考えられない。したがって死者を一度埋葬し、ある年数を経て骨のみになってから掘り出し、水で洗い清める洗骨の儀式を経て、所定の土器棺に収納した再埋葬が考えられているのである。
昭和五十三年(一九七八)に三戸郡倉石(くらいし)村の薬師前(やくしまえ)遺跡で出土した例によると、遺体を土器棺に収納するにあたっては、最初に顔面を上にして頭骨を収め、その周囲に手足の長骨を立て、頭骨の上に腰骨(寛骨)・肋骨・脊椎・指骨などを入れ、さらに身に着けていた装身具類を加えて蓋を乗せ密封し、再埋葬したように思われる。薬師前の人骨は、頭骨に接して立てられていた手の橈骨(とうこつ)と尺骨にベンケイガイの貝輪(腕輪)が七枚着装の状態で発見され、さらにイノシシの牙を利用した垂飾品(首飾りと思われる)が一三枚も出土している状況から、この遺体(五〇歳未満の女性骨)は一般の集落構成員とは異なった特別の人であり、ことによると集落の重要な問題を占う、巫女(みこ)のような業務を担っていたとも考えられる(76)。
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