⑶ 「環境的見地」から
さて、私があえて「日本百名山」を目指すことをしない理由を前回と前々回と述べてきたが、最後に環境保全の見地から指摘したい。これは多くの方が指摘しているし、「傷だらけの百名山」(加藤久晴)3部作でも取り上げられているところでもある。狭い国土に1億人以上の者が住んでいる日本において「1000」ではなく、あえて「100」を切り取ったことで、多くの観光客が「目指すべき山」“客観的な“指標として、百名山を目指す(目指すこと可能かつ手頃な数)ようになった。そして、土の登山道は、洗掘がより激しくなる一方、洗掘された登山道を歩く登山者が少しずつ脇道を踏み続けることで、登山道周辺は踏み跡だらけになり、ますます洗掘が激しくなり、ついには登りにくい階段が設置されたり、石畳化するなど、自然への負荷は強くなるばかりだ。その一方で、山頂近くまで道路が開通されることにより、かつてのメインルートはどんどんヤブ化するなど荒廃の一途をたどる。「『百名山』栄えて山滅ぶ」と揶揄されてきた所以である。「傷だらけの百名山」が書かれた頃とは、今は世間一般の環境に対する意識も大分変わった。山でのリゾート施設などが一過性のもので採算がとれない存在であることも共有されるようになった。それでも、「百名山」の威光は、多くの登山者の心を照らし続け、人は現在も「百名山」へ吸い寄せられていく。
私も視聴しているNHKの「にっぽん百名山」やグレートトラバースシリーズでも「百名山」の魅力を伝えており、人は知らず知らずのうちに、「百名山」への思いを募らせる。そうやって多くの人が「百名山」を目指して、登山者は集中(いったんはコロナ禍による減少はあるものの)していくことになる。
東北では、私からみると、八甲田や八幡平、蔵王、月山、吾妻はもはや「山」とは言えないリゾート地であろう。そうでなくとも、私が鳥海山(鉾立コース)、岩木山(八合目より上)を週末に歩いた時の人の数は、下界のリゾート地の混雑ぶりと何ら変わりなかった。これだけ多くの人が集中して環境に影響がないわけはない。環境保護への意識の高まりは、こういった「百名山」に対する入山の許可制、人数制限、有料化などの規制へとつながっていくのであろう。環境のためにも、「百名山」の「踏破」を目指す行為なんて辞めようと呼びかけたくなる所以である。
一方で、環境の側面からいうと、深田百名山のおかげで、「百名山」以外の山々に対する無制限な開発やオーバーユースを防いでくれたといった側面はあるかもしれない。仮に、白神岳が「百名山」となっていたら、白神山地に観光道路が貫いていたかもしれない、さすればブナ林が大幅に伐採され、「世界自然遺産」にも選ばれなかったかもしれないし、私にとって母なる船形連峰には、宮城県と山形県を越境する観光道路が突き抜けていたかもしれない。東北の和賀山塊も同様だ。南東北に目を向ければ、二つの百名山を擁する尾瀬への人の集中が鬼怒沼の秘境性を守っているのかもしれない。
そう考えると、逆説的には、人口密度の高い日本において、あえて「百名山」というわずか百の山の存在が、「百名山」に極端なオーバーユースと環境変化を集中させたおかげで、「百名山」以外の万単位で存在する山の自然がもつ素晴らしさや秘境性を救ったという一面があるかもしれない。まさに、「百名山」がバブル期にはリゾート開発の盾となり、登山ブームでは、オーバーユースの盾となってくれた(いる)のである。深田久弥が3日かけて登ったという「秘境・平ヶ岳」が「百名山」に選出されたおかげで、平ヶ岳のプリンスルートなるものが開通され、その秘境性の喪失と引き換えに、近辺にある他の山々の秘境性を救ってきたという指摘もある(平ヶ岳及びその周辺については私は登ったことがないので真偽のほどはわからない)。
もちろん、「百名山」自体の環境は悪化、クラシックルートの荒廃といった問題は依然残るのであるが、それは日本人自らが選んだ道なので残念ではあるが仕方がないことであろう。
環境のためにも、意識的に、「百名山」の踏破を目指すようなことには疑問を抱かざるを得ない。
最後に
つい最近まで登山とはほとんど縁のなかった私にとって、登山の世界を知り、たった一人の登山家なり小説家の名山観で選定された「日本百名山」が、あたかも客観的指標かのように君臨している登山という業界の異常さを知った。そして、私がなぜ、あえて深田久弥の「日本百名山」を目指さないのかを書いてきた。
しかし、一方で、深田百名山の存在が、山に関心のなかった多くの人たちに山への関心を呼び起こし、その後の老若男女を問わずとした登山ブームの礎となり、そのことが登山という分野がスポーツとして確立させていった側面はあるだろう。多くの方が登山に興味をもつことで、登山という分野が経済的にペイできる、そのことにより、各種ギアの軽量化や高機能化、低価格化をもたらし登山者へ便益をもたらし、私自身もその恩恵を享受してきたといえるであろう。幸か不幸か、「百名山」への登山口や山頂自体へのアクセスも容易となり、体力のない私でも、それなりに山を歩けるようになり、山の自然の素晴らしさを享受できるようになった(一方で、環境破壊という負の面があったことは前述のとおりであるし、アクセスの容易化により、体力や準備不足による遭難事故が増えていることはゆゆしき問題ではある。)
私もそうだが、山登りを開始して、1年〜2年経過し、少なくない登山を経験して、「百名山」はもちろんのこと、「百名山」以外の山も含め「山」の素晴らしさを知った方も多いと思う。だからこそ、深田百名山やその亜流の◎◎名山から一歩下がって、「百名山」の「踏破」やコレクションから自分を解放してみるのも決して悪くないのではなかろうか。
幸い現在は、ヤマレコやYAMAPなどのSNSによって、近くの里山からアルプスの3000m峰まで有益な最新情報を容易に得ることできる時代になった。スマホによるGPSの発達や他の方のルートのダウンロードも私たちの登山の後押しをする(もちろん、主体的に登る経験を重ねていくことでこのような他人の足跡を頼りに登ることでは物足りなくなっていく)。
わざわざ深田大先生の著作の目次をガイドブック代わりに使う必要性などないのである。しかし、多くのガイドブックや雑誌、NHKを中心とした山番組は、「視聴率」欲しさなのか、いまだに「百名山」偏重の編集方針の傾向だ。このような傾向は誠に残念というほかない。
全くの負け犬の遠吠えではあるが、私は、皆さんに対し、登山レポに深田久弥が個人で選別した100を基準に「日本百名山 ◎/100」などと記載するようなことは辞めることを提案したい。むしろ、しゃぶり尽くされた「百名山」などではなく、皆さんの内にある(深田百名山ではない)、無数の百名山こそ興味深い。そして、多くの方が、それぞれ自分自身の「百名山」(別に、100にする必然性は全くないのであるが・・・)を発信するようになり、いつか深田百名山が、無数にある「百名山」の一つに過ぎないと相対化された時、私を含め日本人は「百名山」から解放されるのであろう。
そうはいっても、大変不幸なことであるが、深田「百名山」は常に私の意識・無意識を問わず身体に染みこんでいる。それくらい「百名山」は、私の心の奥底に知らず知らずのうちに寄生虫のように入り込んでいるとても厄介な存在なのである(「百名山」の素晴らしさの裏返しでもある)。私は、もともと山岳部でもなく、50歳を目前にして山登りをはじめた完全な素人で、様々な山を登り続けることで、なぜ、こうやって「百名山」という存在に意識がいってしまうのかよくわからない。最初に私は、「百名山」に対して、いわゆるアンチなのは、「嫉妬心」と書いたが、それは「百名山」の素晴らしさ(一部がリゾート化したとしても山そのものの素晴らしいことに間違いないであろう)を認めざるを得ないからこそ、登りたいと思いながら、「時間とお金(将来もしかしたら体力も)の限界」ゆえ、登り尽くせないという思いがあるからなのかもしれない。
でも、こうやって、「百名山」に対する思いを書き綴ることで、諸先輩方にコメントをいただき、なんとなく私のような感情を持つのは「誰しも通る道」であり、自分なりに考えながら登ることで、「百名山」に対する思いは昇華されていくのであろうことも、この間のやりとりでわかってきた。そのような境地にはまだまだたどりつけないが、このまま登りたい山に登り続けることで、深田百名山を自分の中で相対化できる日が来ることを願わずにはいられない。10年後くらいに、この日記を読み返すことで、きっと「登山者」としての当時の自分の未熟さを笑うことが訪れることになるのだと思う。
それまで、私は深田久弥の「日本百名山」という妖怪とたたかいながら、自分が登り たい山を登る続けるのであろう。
(完)
だらだらとした駄文に長い間お付き合いくださってありがとうございました。
は山登りだと。観光地や海外旅行と同じ感覚だと思いますよ。山は百名山で無くても登ったときに人それぞれ色んな感銘を受けると思う。百名山いくつ登ったと登山口に外車で乗り付ける人は山に対する感銘などなく単なる暇つぶしなのでは?自分の思い出、家族との思い出の登山、それには百名山ではなく地元の地味な山が多いのでは?立派な山、普通の山、山の優劣にかかわらず人生のいい思い出が出来るといいですね。
「山の優劣にかかわらず人生のいい思い出」、仰るとおりですね。どんな山でも、人それぞれ異なる感じ方がある。「百名山」なんかにこだわればこだわるとほど、心の無駄ですね。
最後まで興味深く拝読しました。
著者も、公的に選定された自然公園ならともかく個人の基準で選定したことが独り歩きしてしまうことを懸念されていたのかもしれませんね。
ちなみに私の主観的な基準により選んでいる日本一名山は栗駒山です(自己満足ですが)。
こんな駄文に最後までお付き合いくださってありがとうございます。
著者の選んだ山々が素晴らしいだけに、これが主観的基準ではなく、客観的基準のようにみなされてしまったのはなんとも残念です。
acky-mouseさんのように、皆さんが主観的な基準で名山を選べばいいと思います。栗駒山、私も大好きな素敵な山ですね。私は、経験不足で、まだまだ「名山」を選出できるレベルではありませんが、鳥海山、船形山、乳頭山が印象に残っている山で、きっと私が選ぶ名山選に選出されると思います。当然、自己満足です。
先日(6月25日)こちらに投稿させていただいた時から現在までに、 tektektek2003さんの「日本の山1000」に登られた山の数が68から77に増えていることに気づきました。百名山に限らず、様々な山に登られていることがわかりました。力を抜いてご自分のお好きな山に登られているのは良いことだと思います。もちろん、環境へのインパクトも分散されますね。
私の場合、百名山も所詮は自己満足にしか過ぎず、ヤマレコに記録を投稿したとしても、数多ある同じ山の投稿に隠れてしまいます。ちょっと変わった山行をした時(例えば、ID:436396)は、訪問者が増えましたが。
それぞれの山に、個性があり、それを発見する山歩きはとても楽しいですね。結局、天候最優先なので、天気予報がいい山を登っているうちに、いろんな山を登る結果となっていますが、どの山を登っても、楽しいですね。
ID436396拝見しましたが、なかなか素敵な山行ですね。私は人混みが苦手なので、筑波山を登ろうとは全く思っていませんでしたが、こういう登り方だと、なんだか楽しそうですね。
私も意識的に「百名山」を避けているではないので、これからも力を抜いて「百名山」を含め、いろんな山を経験したいです。
七大陸最高峰など海外登山の話です。知識・技術・装備・体力・資金とスポンサーを付ける能力もなく到底無理な話。そこで海外に行かなくても素晴らしい山は国内にいくらいでもある。などとアンチ百名山と同じような言動になります。
嫉妬心なのか自尊心なのか「出来ない」とは言いたくないので「やらない」と言います。やらない理由は自己弁護で他人からは興味もないどうでもよい話。
私が思う百名山
普段は地元の山を楽しんでる。年に1度とか頑張って遠征登山する。遠征するにあたりメジャーな山を探す。少々天気が悪くても一生一度の覚悟で登ってる。時間が許すなら1日2座登りたい。気持ちは十分に理解できます。
その登山者の極一部を見ただけで百名山ハンターと思い込み否定し自分を肯定する事に意味も価値もないと思います。
その1
>嫉妬心が根底にあるというのが偽ざる気持ちなんだと思う。
リアルな話。
その2
>体力と時間、金があったら深田百名山を目指すのか?
たられば、架空の話。
架空の妖怪との戦いに終止符を...
「百名山」を踏破した人のいわゆるアンチに対する捉えたかの一端が見えたので、とっても参考になりました。
今回は、Tenberryさんのようなコメントが思いの外少なかったので、このようなご意見を聞けてよかったです。
架空ではなく、現実に存在する”客観的指標”たる「百名山」から解放されてくて、書き始めた日記ですが、おかげで大分すっきりしました。
「妖怪との戦いに終止符を」
本当に仰るとおりです。
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