最近山岳関係の本を漁って読んでいます。
その中の一冊「山への挑戦 -登山用具は語る- 堀田弘司著 岩波文庫」
山をただ登る事だけを目的としたスポーツ登山は、18世紀に入ってからの1786年のモンブラン初登頂が始まりと言われ、この本では、登山用具の進化という視点で西洋アルプスの登山史を第1章「登山という挑戦」でまとめ、第2章「登山用具は語る」でピッケルやアイゼンといった代表的な登山用具の歴史を振り返っている。
これらの歴史を振り返っていく中で、度々話題になる何故登山用語はドイツ語なのか。という謎についても、多面的に日本に海外の最先端技術が伝わる過程で触れられてるのでそこから少し考察してみる。
過去にヤマレコの日記でもその件について触れられています。
https://www.yamareco.com/modules/diary/21844-detail-79296
https://ryokuho.exblog.jp/21085136/
日本における近代登山の幕開けは、イギリスの宣教師W.ウェストンが日本にやってきた明治21年。そして「日本アルプス登山と探検」という本をイギリスで出版したのが明治29年頃であり、確かに彼が日本で初めてロッククライミングをした人物ではあったが、日本に向けてその本を出版し登山技術を伝える意図があったわけではなかった。
明治27年に刊行された志賀重昂の『日本風景論』において、「登山の気風を興作すべし」との言葉に影響された小島烏水(点の記でライバル役でも出てました)が友人の岡野金次郎と共に明治35年に槍ヶ岳に登ったが、英国式の最新の登山様式については無知であった。
しかし、その直後に岡野が偶然職場でウェストンの「日本アルプス」を目にし、またまた偶然再来日していたウェストンが小島と岡野と同じ横浜にいる事がわかり、直ちに手紙を送って訪ねる事となる。
この時にピッケルやザイル、そして当時としては日本では画期的だったルックザックを紹介され、これが日本が最先端の登山技術を学ぶ最初の機会だったと考える。
しかしこの時に立ち止まってみると、彼らが教わった言葉は英語であり、小島の著書にはドイツ語が用いられる事はない。
次に最先端技術を持ち帰ったのは、ニッカウィスキーで有名な加賀正太郎が、明治43年にユングフラウ登頂時に持ち帰ったものだった。登山用具でまず注目されたのがルックザック(Rucksacke)でありこれはドイツ語による造語で、大正3年の『山岳』にて発表された「登山の準備」ではルックザックという言葉が用いられている。
第一次大戦から第二次大戦までの20年間は、ウィンパーやママリーを輩出した英国人による登山はヒマラヤへと最前線を移しており(エベレストでジョージ・マロリーが死去するのは大正13年)アルプスに残り三大北壁を登ったのはドイツ人とオースリア人らであった。
現代にも通ずる登山技術の基礎となるハーケン、カラビナ、ザイルによる懸垂下降や確保法は、大正10年頃にドイツ人とオーストリア人によって考案され、12本爪アイゼンもドイツ人がアイガー北壁登攀時に用いた事でその有用性が証明され、現代の登山用具の原型が出来上がっていた。
日本国内でこれらの技術を積極的に取り入れた、藤木九三らによるRCCが大正13年に創立されると、彼らが懸垂下降などの登山の技術書を国内向けに出版するようになる。
また、大正10年に日本で初めて登山用具を輸入販売を行った大阪のマリヤ運動具店の輸入先はウィーンであり、国内でも最先端はドイツにあるという認識があった事が考えられる。大正12年に関西にその後を引き継いで好日山荘が開店する。
しかしながら、藤木九三は昭和5年にモンブランやマッターホルンの登頂後に、イギリスに渡って登山技術を学んでおり、ハーケンは下降時や落下時の確保の為であり前進に用いてはならないという思想が根底にあって、あくまでも岩壁登攀はドイツ語ではなく英語でロッククライミングと呼んでいる事からあくまでも教師として見ていたのは英国式の登山だったと考えられる。
こうした経緯を持った日本の登山技術は、英独混合となり、ザイル・テクニックなどという用語なども登場した。
昭和に入り、前記した過去の日記などでもドイツ語を用いるルーツとされた大島亮吉(昭和3年に墜死)の残した著作にはモルゲンロードなどドイツ語が多彩に盛り込まれている。
『穴のなかに敷いてある偃松はいまつの枯葉の上に横になって岩の庇ひさしの間から前穂高の頂や屏風岩のグラートとカールの大きな雪面とを眺めることが出来る。』
同時期の加藤文太郎(昭和11年に遭難死)の手記は
『霧が巻いてきたので山毛欅坂避難小屋に泊る。気持のいい小屋だ。炭俵がたくさんあり、その中に入っていると温かい。アルコールは便利だ。コッヘルにて餅を炊く。とてもうまい。また干柿もいい。この附近積雪量五尺くらい。』
『岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。』
松濤明(昭和24年遭難死)も同様に、
『ラッセルは深くて膝まで。ただし上部に垂直近い悪場があり、先年五月には左をからんだが、今度は直登して骨折った。P2頂上の立木の根方に荷を置いて直ぐ引返したが、沢までひと息という所で暗くなり、ライトをつけて岩小屋に戻った。岩小屋内には流木あり豪勢な焚火をした。しかしシュラフだけでは寒くて眠れなかった』とあり、同時期の登山者はドイツ語と英語を混同して用いていたようだ。
現代においても、英語、仏語、独語などが混ざっていても特に違和感なく使用しているため、『外国語』として輸入された時点で吸収されていったのではないだろうか。
その後、アルプスでボルトが使用されるようになると、日本にも人工登攀の時代がやって来て、昭和33年の谷川岳で初めてボルトを使用したルートが初登されると、昭和34年に谷川岳衝立岩や前穂高岳屏風岩などの主要な正面壁が登られた。昭和40年に「日本の岩場グレードとルート図」が第2次RCCより発売されると日本の主たる岩壁が登り尽くされる。
その後1970年台の終わり頃に、国内の各地でボルダリングが行われるようになると1980年の「岩と雪」により一気にアメリカのクライミング文化が雪崩込み、英語圏文化が再び日本登山界を席巻させた。
この時に、ザイルはロープと呼ばれるようになった。
しかしながら、フリークライミングの用語についても比較的最近の出来事であるにもかかわらず滅茶苦茶である。
なるべく残置物を残さずにグラウンドアップスタイルを重んじるヨセミテと始めからラッペルでルートを定めてボルトを打ってから登るフレンチスタイルが混同する時代があり、その流行に合わせて「カチ」という日本語一つ取ってみても「クリンプ」という英語や「アーケ」というフランス語などと混濁している。
残念ながら、山への挑戦は現在絶版となっており中古本でしか手に入らないようです。しかしながら、登山史を学ぶ上でこれほどまでにわかりやすく纏められているものはないのではないでしょうか。電子書籍でも良いので復活を期待します。
読んだことの無い方は是非。
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