奥秩父という呼称があの山深い山々に冠せられたのは、いつの頃からなのか詳らかには知らないが、秩父盆地の奥山一帯をさす名前として定着したものであろうことは容易に想像される。しかし、今日では、この山域は甲州側、信州側からの登攀が便利となり、秩父の街並みを通り過ぎ、栃本、川又といった山間の集落をたどり、山道を踏み分けて登る山としては、すっかり影が薄くなってしまった。
今回(昭和54年(1989)8月)の山行は、昨年の滝川遡行の敗退後、再びこの山深い奥秩父の入川真ノ沢を登りつめて甲武信岳の頂にいたろうという計画なのだ。しかも単独行で挑戦しようというものだった。
秩父までは西武電車を利用する。武甲山の変わり果てた姿が車窓から見えて、自分が秩父人のような寂しさを感じた。確か、頂上がついに失われたというニュースが伝えられたのは、この年の初夏の頃であった。
秩父鉄道の終点の三峰口に着く頃、夏の雨特有の雨脚の激しい雨が車窓を激しくたたきはじめる。乗り合わせた夏季ハイキングの家族連れの楽しそうな笑顔が瞬く間にしょげ返った面持ちに変わって、誠に気の毒である。三峰口からはバス。秩父湖で再びバスを乗り換えて、ようやく川又まで入る。滝水のような雨。バス停近くの旅館兼売店の店先でおにぎりを頬張りながら一服していると、次第に雨は収まってきた。
柳小屋までは、途中森林鉄道の軌道跡の道をたどる。林道沿いの入川が増水してミルクコーヒー色の濁流となって轟々と流れる。それが、山道に入るとほとんど濁りのない水がこれまた轟々と流れているのが印象的だった。4時間ばかりかって柳小屋に着いた。同宿者は、渓流釣りの2人組と金峰山に登るという登山者1人である。
翌日は、真ノ沢を遡って甲武信岳に向かうのは明日に延ばして、股ノ沢で一日のんびり遊ぶことにした。午前6時過ぎにサブザックをもって小屋を出る。1時間ほど真ノ沢のとおらずの難所を偵察して、股ノ沢に入谷する。
空を覆いつくすように繁る木々の葉末に夏の日差しが降り注ぎ、ブナなどの広葉樹は、その明るさに圧倒されて透き通るように光っている。木々の間から零れ落ちる陽の光が水面に踊り、谷全体が緑色に染まったような感覚に陥った時、渓谷の夏を全身で感じた。
釣師が入るのだろう、嫌なところにはしっかりとした巻道がついている。天気も上々、気持ちよく遡っていく。岩魚の一匹でも釣りたいものだと、ときどき竿を出してみるが、魚影すらうかがえない。
幽遠な世界を打ち破って水音が響く。時には激しい滝音となり、時には滑り落ちるような滑滝の音となり、ある時はせせらぎのような水音となる。谷に響くのは水の音だけである。この清冽な水は、どこから来り、どこに流れていこうとするのか。岩をくぐり、空中高くはじけ飛び、踊るように流れていく。全ての存在は静寂の中にある。
昼過ぎには、二俣まで詰める。魚影は一匹のみで、もちろん魚果はない。ここまでくれば十文字峠へ通じる股の沢林道は近いはずだ。ところが、行けども、行けども峠への山道に出会わないのだ。そうするうちに、雷の音とともに、激しく雨が降り出してきた。ついには、沢のどん詰まりの滝下の大岩のところで、進退窮まってしまった。もう、川筋を戻るのには時間的に遅すぎる。小やみになったところで、少し下って、ビバークに適した場所を探すことにする。
暗闇の中で膝を抱えてじっとしている。何も見えない。腕時計の針さえ見えない。目の前数メートル先を流れているはずの渓流の水音のみが、この漆黒の世界に打ち響く。単調なつかみどころのない調べ。いったいどこに迷い込んでしまったのか。ここは奥秩父入川股ノ沢、信州佐久の梓山と秩父栃本を結ぶ十文字峠を下ること標高差にして350mほどの地点であるはずなのだが・・・何かこの世ならぬ別世界に紛れ込んでしまったかのような幻覚に襲われる。
それにしても寒い。セーターを一番下に着込んでとはいえ、2度にわたって激しい夕立で濡れそぼった綿糸の上着をまとう身には、今が8月下旬の夏の盛りであることは意味を持たない。ここはもう、岩陰で静かに目をつぶって、膝を抱えてしゃがんでいるしかない。なぜ峠への山道がわからないのだろう、明日も同じく沢伝いに下っていくしかないのだろうか、思いは限りなく堂々巡りである。ついには、果たして夜は明けるのかという不安が脳裏に浮かんでは、消える。その度に胸が一瞬熱くなるのだが、次の瞬間一層体から熱が奪われるのが実感される。
一瞬、前方にほの白いものが見えた。月の光がかすかに射したような、ほのかな明かるみである。その姿、形は未だ周囲の闇に溶け込んで不分明であるが、思わず知らずじっと目を凝らす。しばらくして、ようやくそれが岩だということが分かった。一旦それが岩だと分かると、周囲の世界は急に明るさを獲得していった。姿、形を得た世界が10メートル、20メートルと拡がるにつれて、長い夜が明けたことが実感できた。腕時計を見ると、5時である。山際がはっきりするまで、月の光のようなほのかな光が朝の力強い日の光に変わるまで、あと30分待とう。はやる心を何とか落ち着かせる。
ぐるっと頭を挙げ、空を見上げる。密かな期待に反して、雲は厚く、重く垂れ下がっていた。これからどうするか。沢を下り通せば、柳小屋まで4時間ぐらいの辛抱だと思う。昨日も一か所補助ザイルを使ったくらいだったから、それほどの危険はないだろう。思わず数十メートル河原を下りかけたが、「まてまて」と心のどこからか声が聞こえてきた。山道は必ずあるはずだ。この付近にきっとあるはずだ。昨日は二俣から2往復したから、登山道がこの沢を横切っていないのは確実だ。道があるとしたら右岸である。試に右岸のシラビソの林に踏み入ってみる。林は沢沿いで湿気があるのか苔むしていて、下生えも藪というようなものでもない。その林を20メートルほど進んだろうか、ふと視線を前方にやると、露出した土が細く長く続いている。踏み跡だろうか。駆けるように進むと、やはり道だった。
こんなに近くにあったのだ。念のため、ビバーク地点までこの道をたどってみると、驚くほど山道が河岸に接近しているところにビバーク地点はあった。ビバークした跡が、なんだか動物が寝た跡のように見えるのが、我ながらおかしかった。
1時間ほどかけて、柳小屋に戻る、小屋に戻ると、また雨が激しく降り出してきた。今日は沈殿としよう。暫くシュラフにくるまってうとうとした。雨は昼過ぎにやんだ。川は一段と増水している。こんな天候の中を沢伝いに小屋に戻るのはしんどかったことだろう。
翌日は、晴天。9時間かけて真ノ沢を遡る。慎重を期して、滝も巻けるところはできるだけ巻く。奥の二俣は右俣を選び、甲武信小屋を目指す。沢の源頭あたりから稜線までが、傾斜もきつく厳しかった。ようやくの思いで稜線の小屋に出たとき、心の底から満足感が満ち溢れ出てきた。ここから4時間の下りである。明日は仕事が待っている。
【注】 これもまた、反省多き山行の一つである。若き日に、戒めとして記した文章を一部修正した。
【参考】文中の奥秩父滝川行については、以下の「回想の山旅 奥秩父滝川 岩魚なんていないの巻」をご覧ください。
https://www.yamareco.com/modules/diary/356744-detail-172064
反省体験を得られる行動は貴重だと思います。逆にいかにそのような体験を個人として獲得できるかに興味を覚えます。
体験を通して自分の興味を拡大していく過程、体験を新たな体験へと発展させる過程は特に若い時代に有効かと思っています。
生物行動と進化に独特な説明を発展させた「ドーキンス」は、「好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I: 私が科学者になるまで」で「天性の能力の方が努力によって得たものより賞賛される傾向がある。そのため多くの好機を逃してしまったことが多い、学生時代は十代で無駄に浪費されるにはあまりにももったいない。熱心な教師たちはブタの前に真珠を投げ与える代わりに生徒が真珠の美しさを評価できるだけの大人になるよう教える機会を与えられるべきである」と述べています。彼が体験した実例として「逸したあらゆる好機の中で最大のものは工作室での体験であった。そこでの講師は先生ではなく工場現場の作業主任から採用され、教えることは技術一般を開発する方法ではなく特定の仕事を行う方法だった。大量生産工場で働く労働者と同じようなものである。研究グループでは、知性に溢れ構成員の研究を支援し数学的な考え方を含めて個別指導していたもののグループ指導者には選定されてはいないマイク・カレンを皆尊敬していたが、グループの達成目標の興味ある変化についてはマイク・カレンの指導によって達成できた」ことを挙げています。
彼には、幼少期のアフリカでの遊びを通した体験が大きな影響を及ぼしているようです。
WikiPediadによると、彼の幼少期については「1941年3月に、イギリスの植民地であったケニアのナイロビに生まれた。父クリントン・ジョン・ドーキンスは軍人で、第二次大戦で連合国軍に合流するためにイギリスからケニアに移住していた。1949年、ドーキンスが8歳の時に彼らの家族はイギリスに戻った。彼の両親は自然科学に関心があり、幼いドーキンスの疑問に対して科学的な用語を用いて答えた」と記載されています。最近の読書の感想です。
コメントありがとうございます。
ドーキンスの「利己的な遺伝子」は、書店で手にしただけで、読まなかったのは今から考えると残念でした。1976年当時といえば、動物行動学のローレンツがもてはやされていて、何冊か読んだ記憶があります。また、進化論といえば、今西錦司のすみわけ理論は今どのように評価されているのでしょうか。自分では、学術的な俯瞰ができないので、ちょっと知りたいところです。
最近自分の古い山行記録を整理していて思うのですが、「経験」は、心の中で反芻的な内省がなされるものが、記憶として定着し続けるような気がします。スライドが残っていて初めて登ったことがかすかに記憶によみがえってくるものもあれば、写真やメモも不完全なのに天候やコースの状況が鮮明によみがえってくるものもあります。
この差は、山行計画のち密さにあるのではなく、山行意図の明確さにあるように感じます。
ローレンツといえば「攻撃―悪の自然誌」を読んだ印象が強烈です。
今西錦司のすみわけ理論については、彼が提示してから国内的には個別事例の実証に努めていたのではと思います。理論の実証は例外があると覆るので戦略的な困難性があり、新たな視点での包括的な理論の提示が解としては有効かと理解しています。例えば生態学的空間であるニッチの概念の提出・活用など。
最近AIの進化に関連し、ダーウィン「最も強いものが生き残るのではない。変化に適応できるものが生き残るのだ」というようなフレーズが今でも用いられるのもある意味この例かもしれません。
同様な意味で気になったので、梅棹忠夫「文明の生態史観」も確認しました。叢書版発行1967年1月20日・文庫版1974年9月10日だそうです。
WikiPediaによれば、「梅棹が1955年(昭和30年)に行ったアフガニスタン、インド、パキスタンへの調査旅行の際に、感じたことを体系的にまとめ、文明に対する新しい見方を示したものである」そうです。申し訳ないですがジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄・1万3000年にわたる人類史の謎」に比較すると具体性がないと感じていましたが、先駆性を考慮するとそうとも思えなくなりました。
漠然とした「記憶」概念の反復事例によって、さらに「記憶」の一面をより鮮明なものにするのではないでしょうか。
高校の英語で習った「時制の一致・仮定法過去」が僕の実例です。英文論文作成の時、上司の時制がバラバラだいう意見を受けて、[Galileo said that the earth moves around the sun]という例を挙げ、「時制の一致」に対応する実験結果の一時性・普遍性の違いを説明したことがあります。また国外の雑誌記者が「仮定法過去」で記載した文章を国内で説明するのにバカバカしさを感じたことがあります。すなわち[If I were a bird, I would fly to you]のような例を実際には可能なのではないかと曲解されたなど事例です。
明確な対応がない状況で何回も説明する過程で、過去の高校時代が思い出されました。
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