スキー仲間達の、集合スナップ写真である。
当時、都心から志賀高原丸池スキー場行きの夜行スキーバスが出ており、スキー初心者だった学生時代から屡々利用していた。
積雪の状況によっては湯田中が終点に変更され、早朝の寒気の中を板を担いでスキー場まで歩いたものだ。
そして帰りの夜行バスが丸池から出ることはなく、決まりで全て湯田中発であった。
帰りは、明るいうちに湯田中駅に到着するように、積雪の自動車道を滑走して下るのである。
時には途中で雪不足になり、残る行程を歩くこともあった。
それでも足元の明るい午後5時には到着するのだが、夜行バスの発車は午後8時か8時半、この3時間程の待ち時間が実に楽しかった。
それは、駅前の土産物を販売する食堂での、夕食を兼ねた呑談会である。
店頭にある土産物の、鮎の塩辛”うるか”(潤香)で呑みながらのスキー談議の楽しさが、懐かしく思い出される。
写真の頃から常宿にしている法坂スキー場のホテル グリーンランド(後のサンバレースキー場の滋賀グリーンホテル)の、ご主人 春原さんには随分とお世話になった。
スキーシーズンの終わりに、友人と予約もせずに訪れたことがあった。
ゲレンデに人影もなく、リフトも全部が停止していたのに歓迎して頂き、リフトも我々だけのために全部動かして下さった。
春原さんには妙齢のお嬢さんと学童の息子さんがあり、お嬢さんはホテル フロント、息子さんはゲレンデ パトロールをして家業のお手伝いをされていた。
息子さんは、後にスキー選手として、国体などで大活躍との噂を聞いた。
写真の、舗装も無い広場の背景左隅に、吞談会の土産物食堂らしきが写っている。
其の店内で、陽に焼けた真っ赤な顔をアルコールで更に赤くした、仲間達の満面の笑顔を懐かしく思い出すのである。ainakaren
*「熱燗の清酒に”うるか” 」https://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-30019
初めまして!いつも文学的な投稿を楽しませていただいています。
我が家の近所の歴史あるお写真と、昔のスキー場の様子をainakarenさんのお話で想像しつつ楽しませていただきました(^^)
ainakarenさんのお知り合いの春原さんの、おそらくお孫さんに当たる方が私のお友達です。今でも法坂ゲレンデ脇でご家族で美味しいレストランを営まれてますよ!
それにしても、湯田中まで下山はスキーでという部分には大変驚きました。でもかつてはそういう時代ですよね。1980年代でさえ、冬に学校に行く時に車道をスキーで滑って通学していましたから(^^)
harubo33さん、こんばんは。
コメント深謝です。
春原正明さんのお孫さんと御友人とのこと、世間は広くもあり、狭きもあり、不思議な御縁ですね。
当時、”湖月の湯”〜”電話は志賀高原18番”が宣伝文句でした。
正明さんは、法坂スキーリフトとホテル グリーンランドの社長さんでした。
志賀高原のゲレンデスキー場は、もともと進駐軍専用スキー場だったとお聞きしました。
私が20代半ばの頃、働き盛りで初老のご年配でしたね。
息子さんは私より一回り以上若かったですが、それでも今では御孫さんの居る年齢ですね。
居られれば、正明さんの曾孫ですね。
懐かしい御消息を御教え頂き、有難うございます。
どうぞ、宜しくお伝え下さい。
とても懐かしいです。ren
*法坂でのエピソード〜 https://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-43116
度々の追記と字句訂正、お許しの程を〜
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