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勿論遡行を始める前に地下足袋と草鞋に履き替えるのだが、彼らには「俺は沢屋だぞ!」という自負と粋がりがあって、途中の駅や列車内ではカラコロと音を立てて、肩で風を切って歩いていた。
薄汚いハンチングに山シャツの兄ちゃんが、ニッカズボンの脛毛だらけの素足に下駄を履いて闊歩するのだから格好いい訳がないのだが、本人達は得意満面だった。
ザックや山装束も当時はカラフルな物はなく地味な色合いだから、なんとも薄汚い印象しか記憶していない。
我が会の先輩にもそうした人が何人か居た。
彼らも北アルプスに入る時にはナーゲル靴でばっちり決め、帽子もチロリアンに変わっていたから面白い。
私にはその風俗を真似する気になれなかった。
http://yamareco.info/modules/yamareco/upimg/39/398340/da6f91ddca40670ec720976337f79fa3.jpg
その私が山から下駄を履いて帰る破目になったのだ。
雪渓を詰め終えて、岩場に取り付いたものの、氷雪が予想外に少ないので一旦アイゼンを外す判断をしたまではいいのだが、アイゼン紐を解いてピッケルの石突をナーゲル靴底のアイゼンに当てて足を引き上げたら靴底がアイゼンと一緒にパッカリ取れてしまった。
老朽化した靴底の縫い糸が寿命で風化しポロポロになっていた。
取れた靴底をアイゼンで押さえ、登攀を中止してやっとの思いで下山したが、裸足で帰る訳にもいかず、途中駅の近くを探し、観光みやげ物屋で下駄を買った。
焼き杉の女下駄しかなかった。
しかも派手な紅い鼻緒が挿げてある。
ピッケル持った厳つい山男が素足に紅い鼻緒の女下駄なんて似合うわけがない。
列車に乗ると私の足元は好奇の視線に曝された。
目一杯恥ずかしいし場違いも甚だしい。
まるで夜這いを掛けて親に見付かり、慌てて逃げるとき履物を間違ったようで甚だ具合が悪い。
壊れたナーゲル靴を棄てずに、これ見よがし用に持って来るんだったと思って後悔した。
昭和34年、春の珍事だった。ainakaren
ainakarenさん昭和34年といえば私が中学を卒業した年ですね
話は少し違いますが単独で大倉尾根をユックリ登っていたら、
花立で後ろから下駄で何も持たすに塔ケ岳に向けて走って行った男の人がいきましたよ、
18歳頃は当時は丹沢をホームにし毎週のように登っていましたが手ぶらでの下駄で走るように登る人は初めでした、
表尾根からは取付くにはどこかでも楽でしたが、
西丹は大変でした、昔は小田急電車の最終で新松田駅から歩いて寄経由、雨山峠を越えて行きか、
御殿場線の谷峨駅から山北を当然歩いて通り、中川か玄倉の近くの沢へと通ったものです、
取り付きまで歩いて5〜6時間かかりそれからでしたから、
当時は西丹は健脚者か経験豊富な領域でしたよ、静かで沢などは独占状態でしたし、
当然鎖場などもなく登れなければ撤退か高巻きか判断し、高巻きでは沢を登った気がしなかったですよ、
追伸:此頃の交通費は新宿から新松田迄190円位でしたね、貧乏人には1000円でたっぷり一日遊べましたよ、、
naiden46さん、お早う御座います。
懐かしいお話を有難う御座います。
もう長いこと下駄を履いた人を見かけませんね。
下駄屋さんも無くなりました。
省線電車が国電に変わったころ初乗り10円で東京から氷川(青梅線・奥多摩)まで190円でした。ren
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