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山荘の2階の寝室からは、ベッドに横たわったままで富士山が見える。
富士の裾野、十里木の標高1000メートル弱の高原からは、晴れていれば頂上から宝永火口までが一望に見上げることができる。
土曜日の夜半を過ぎた午前3時に、喉の渇きで目が覚めた。
カーテンを開けて見ると良く晴れた星空を黒々とシルエットの富士山が覆っていた。
星よりも明るく暖かい山小屋の灯が頂上に向かって点々と輝いて見える。
日曜日の早朝、午前3時とあれば、ご来光目当ての登山者が多いのではと目を凝らすと、山小屋の橙色の灯火を繋ぐ様にぼんやりとした青白い光の帯が天の川のように連なって、たなびくように見えるのだ。
大勢の登山者のヘッドライトに照らされた山肌や人々の背中なのだろう。
その薄暗い光の帯がチラチラと星屑のように瞬くのは、立ち止まり下界を振りかえるヘッドライトだろうか。
手元に双眼鏡があればと思いながら、冷たく青白い光の帯と暖かく橙色の山小屋の灯のコントラストを飽きず眺めていた。
すると暖かい山小屋の灯に触発されるように、遥か昔の歌「山小舎の灯」を思い出した。
昭和22年、戦後の混乱期に米山正夫氏によって作詞、作曲された歌謡曲である。
暗い時世を吹き飛ばすような明るいメロディであった。
だが今振り返ると歌詞にはいささか不可解な哀感がある。
たそがれの灯は ほのかに点りて
懐かしき山小舎は ふもとの小径よ
想い出の窓に寄り 君をしのべば
風は過ぎし日の 歌をばささやくよ
ここでしのばれているのは別れた恋人だろうか。
それとも亡き友なのだろうか。
しのぶは偲ぶとも書く。
いずれにしても過ぎし日の思い出なのだ。
暮れ行くは白馬か 穂高はあかねよ
樺の木のほの白き 影も薄れゆく
寂しさに君呼べど 我が声空しく
はるか谷間より こだまは帰り来る
寂しさに君呼べど我が声空し・・ここで呼ばれている君も恋人か友か、まだ謎のままである。
山小舎の灯は 今宵も点りて
一人聞くせせらぎも 静かにふけゆく
憧れは若き日の 夢をのせて
夕べ星のごと み空に群れとぶよ
憧れは若き日の夢・・この文言は何を意味するのか。
一人聞くせせらぎからは、憧れや夢は聞こえて来ないのではないか。
メロディの底抜けの明るさと、歌詞の不可解な哀感には、割り切れないものがある。
人は自らの体験に基づいて事象を理解する。
多くの人が、過去や未来にそれぞれの思いを抱く〜、普遍的なヒット曲とはそうした作品なのかも知れない。ainakaren
(追加投稿)
昭和22年から23年にかけては食糧事情が最悪の時代だった。
敗戦の年、昭和20年より以上の食糧難だったのである。
進駐軍は徴用した生鮮食料品に代えて乾燥鶏卵粉や脱脂粉乳を供与したが、元々飼料用に備蓄されていたもので人間の食品としては問題が多かった。
「山小舎の灯」はそうした時代背景の中で大ヒットとなった。
そして次にヒットを目指したのが「南の薔薇」であった。ren
*山小舎の灯と南の薔薇
http://hakozsito.exblog.jp/7492104/
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