若き日の自分と思しき人物の傍らに木柱の記念碑が立っており、書かれた文字が克明に読み取れる。
撮影前1〜2年内に立てられた未だ新しい木柱に見える。
墨跡も鮮明に「第二回 東京都八市職員連合山岳会 合同登山記念」と筆書きされている。
撮影は1950年代中頃の奥多摩であり、記憶も乏しいが背景に望める稜線からその場所は川苔山と思える。
因みに現在の東京都は23区26市4町村と島部である。
木柱記念碑の文言から1950年代中頃、既に東京都には8市が制定されていたことが判る。
終戦前、私が子供の頃の東京府は東京市、立川市、八王子市の3市制だったから戦後急速に市の数が増えたことも判る。
写真を見ていると、この記念碑を立てた山岳会のその後の消息に興味が湧いてくる。
推定するに母体を旧東京府職員の山岳会とすれば、昭和18年の都制実施以前に設立されていて、市の数が増えるに従い其々支部を経て独立した職域山岳会となっていった様子が窺える。
独立後も岳会同士の交流が続き、第二回目の合同登山の記念として立てたのであろうか。
現在、東京都には東京都庁体育会山岳部があり、昭和6年設立とされているので記念碑の山岳会と何らかの関係があるのかも知れない。
この記念碑や山岳会について、事情を御存知の方のコメント投稿を期待したい。
この写真が撮影された頃、奥多摩町は氷川町と呼ばれ、奥多摩湖は未だ存在せず、其処は深く美しい渓谷だったのである。ainakaren
木柱の記念碑とは関係ありませんが今は奥多摩湖ですか確か正式には通称「小河内ダム」だっと思いますよ、その時の記念切手が手元にあります、当時は切手収集趣味があり古い切手などクラスで交換などしていましたし、駅も奥多摩湖駅ではなく氷川駅でしたね、
話が変わりますが何時の頃のかは解りませんが子供頃から何故か「日本橋區寄贈 酒保」の金物の灰皿があります、それも昔のマッチ箱立があるのであります、
古い道具などは皆整理したのですが、家族全員煙草を吸っていたからかも知りませんが未だに残っています、オヤジが呑兵衛のためか何処から貰ったのかもわかりません、今は禁煙していますが捨てずに隅に置いてあります、
naiden46さん、こんにちは。
コメント深謝です。
そうですね。小河内ダムによって堰き止められて出来た人工の湖が奥多摩湖ですね。
ドラム缶橋のところには目も眩むような細い釣り橋がありました。
奥多摩駅は氷川駅で、JR線は国鉄線でした。
子供の頃は省線電車と呼ばれていました。
もはや忘れられた昔です。
昔の東京市には35区もあって麻布区とか本郷区などの区も有りました。
これも昔の事です。ren
下記の「市町村の変遷」によれば、東京都の市町村合併の歴史から
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/13_tokyo1.htm
1)八王子市
2)立川市
****以上戦前から*******
3)武蔵野市(1947.11.3)
4)三鷹市(1950.11.3)
5)青梅市(1951.4.1)
6)府中市(1954.4.1)
7)調布市(1954.4.1)
8)昭島市(1954.5.1)
9)町田市(1958.2.1)
10)小金井市(1958.10.1)
と続くようです。
したがって都下八市とは昭島市ができた1954.5.1から町田市ができる1958.2.1までの約4年間ということになるでしょうか。
写真の様子から撮影された季節は冬ではないようですから、54年〜57年の間の3年と考えて良さそうです。
「東京都庁体育会山岳部」というのが設立されたという昭和6年は東京は府政をしいていたわけで、お書きになっているように戦時中には都に移行していますね。(それと同時に「東京市」は消滅。)
すると「東京都○(数字)市」というような状況になったのは都下に新しい市がいくつもでき始めた1950年頃かと思われます。すると「東京都庁体育会山岳部」とは別に設立された可能性が高いですね。
この辺は調べたものの何も手がかりありませんでしたので全て推察です。
小河内ダムが竣工(完成)したのは1957年とのこと。この写真はそれより前だとすると54か55、56年、「第二回」というのを考慮すれば54は早すぎなので55か56年撮影というのが可能性高いのでは。
余談ですが、ダム建設の経緯については石川達三の「日陰の村」を読んで知りました。今の福島などの原発とまったく変わらない同じ構図だと改めて思います。
pasocomさん、こんばんは。
コメント深謝です。
詳しい資料を頂き有難う御座います。
1955〜56年には頻繁に奥多摩に通いましたので、その可能性が強いです。
恐らく山岳会の連合は、4市〜7市の時にも合同登山をして、それが第一回目だった可能性も有りますね。
現在、東京都と其々の市に職域山岳会が有るとすれば、起源はこの記念碑の山岳会の可能性がありそうですね。
新しい情報が投稿されるのが楽しみになって来ました。
この日記が関係者の目に止まることを期待します。 ren
残念ですがコメントにも質問箱の回答にも、この記念碑を建立した山岳会の消息が寄せられません。
古い写真は浦島太郎の山だったのでしょうか。ainakaren
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-50313
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