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1万年以上にわたる列島を一つの時代、一つの文化と考える「縄文時代」という区分は世界的に見ると考えにくいが、国際的な時代区分の「新石器時代」となると磨製石器が現れ、銅や鉄などの金属器が出現する前に時代で、西アジアでは農耕や牧畜文化が出現する時代となっている。日本列島では磨製石器は旧石器時代の初頭に現れ、また厳密な意味での農耕・牧畜となると弥生時代以降になり、縄文時代を新石器時代と考えると、それは弥生時代中期くらいまで-場所によっては弥生後期まで続くことになる。欧州の考古学の定義はなかなか列島に当てはめるのは難しいが、縄文時代を一つの時代、一つの文化と考えるのもいろいろな問題があるようだ。これはとても煩わしい問題だ。しかしながら変化は遂げながらも、文化の一定の継続性は認められ、ある地域で遺跡や文化が一時途絶えることはあっても、別の人々が押し寄せて人や文化がガラッと入れ替わるという劇的な変化はほとんどない。列島が南北に長く、人が大陸から渡ってくることはできるが、大量の人の出入りは古い時代には困難だったと思われる。また変化にとんだ気候や地形地質からくる食料資源の豊富さや資源利用から、継続的な文化が一定程度続く地域として形成されたと考えられる。ただこの長い時代を「縄文時代・文化」として、今後もひとくくりにしてよいかどうかはまだまだ議論が必要だろう。
展示は10の遺跡から出た早期・中期・後晩期の土器や祭祀具、とりわけ後晩期の土版、石剣・石棒、埋め瓶など葬祭などの儀式などの精神生活を満たすための道具などが展示されている。伊勢原の発掘展に出ていたような磨製世紀と砥石のような珍しい出土品こそないが、厚木の縄文時代のおよその全体像を知ることができる。
また後晩期には東北の大洞式土器や関東の安行式土器、中部地方の清水天王山式土器、関西の橿原式など様々な地域との交流を示す風土記も出土しているようだ
写真1)恩名沖原遺跡出土縄文早期の撚糸文土器など
写真2)林南遺跡出土、中期の勝坂式(有孔鍔付土器)
写真3)松久保遺跡の後期の土器群
どこでやっているのでしょうか?実は厚木が勤務地なんで興味があります。教えてください。
h321様、もうお調べになったかも知れませんが、厚木市郷土資料館(市立病院前バス停からすぐ)です。厚木市のHP
http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/saijiki/event/d037270.html でご確認ください。展示会は3月31日までです。
ありがとうございます。見に行ってみます。
古の時代、こんなにも素晴らしいものが作られ、そして使用されていたこと、とてもロマンが感じられます。文字ばかりではなく、物質的な証拠から歴史を考える、とても面白いですね。自分も大好きです(お写真の中の勝坂式土器、自分も無条件に好きです)。
でも、歴史的な資料は、現代に残されたもの、偶然残ったもの、もしかしたら昔の人が故意に残したものかもしれないという認識が大切かと実感します。例えば、各時代の遺跡数はいったい何を反映したものなのか。時代の長さは、遺跡の残りやすさは、どの程度の深さで発見されるものなのか、遺跡の規模は、、、、。時代ごとの遺跡数を見る場合にも、その数は単純には比較しえず、考慮すべき要素が多数あるようです。
考えれば考えるほど頭がこんがらがってきます。でも、だからこそ、面白い、やめられない分野かなと思います。
ところで、山歩きをしていても、あとから調べてその山頂が遺跡であったりしたことがわかって、感心してしまうこともあります。数百年、数千年まえの人も山歩きしてたんですね。今でも当時と同じ山道だと、何となくうれしいのですが、、、、。
4万年前に列島にホモサピエンスがわたってきたその時から、ヒトと列島の山の関係は始まったのでしょうねーー。動物を狩り、黒曜石を求めて歩いた旧石器人もおそらくランドマークとしての山を見ながら移動したと思いますし、縄文人に至っては、大山の山頂に土器を残していますねーー。その時の縄文人は何を求め、考えて大山に登ったのでしょうか?数年年前の縄文遺跡でも古墳でも榛名山や甲斐駒、八ヶ岳など素晴らしい絶景の場所に遺跡を残しています。そうした人々は何を感じてこうした山々を見ていたのかーー。謎だらけなのが過去を探る面白さだと思いますーー。、
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