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2018年02月26日 19:44博物館、展示会、美術館など全体に公開

2月25日(日)袖ヶ浦市「山野貝塚から探る縄文貝塚」国史跡指定記念講演会と展示会

袖ヶ浦市の山野貝塚が柵ね10月に国指定史跡となった記念の講演・シンポジウムが袖ヶ浦市民会館で開催され、同時開催の展示会の解説もあるというので出かけてみた。早朝、品川駅東口ー港南口にあるバス停から木更津駅・袖ヶ浦バスターミナル経由のバスに乗る。最初、バス停を探しているうちに7時50分発のバスを逃し、30分後のバスに乗りスムースにアクアラインを通過、東京湾を横断して、なんとか時間前に袖ヶ浦に到着した。ターミナルからは見えない市民会館を探してうろうろしたが、地元の人に方角を確認し、なんとかたどり着く。これまで私にとって袖ケ浦は房総丘陵に向かう通過点でしかなかったが、今回山野貝塚のイベントを経験し、縄文時代には東京湾の内湾と外湾の中間にある重要な地点であることを学んだ。遺跡は縄文晩期以降は廃絶され、その後古墳時代になると富津が三浦半島から東京湾を渡る重要な交通拠点となり、袖ヶ浦は富津と市原の間の通過点となってしまったようだ。それでも500余りの中小古墳が築かれているという。最大にして最古の前方後円墳は坂戸神社古墳で前方部が狭く、後円部との高さが異なる4世紀代の古いタイプらしい。
 今回国指定となった史跡「山野貝塚」は縄文後期前葉(約4千年前)から晩期中葉(約2700年前)まで存続したようだ。この貝塚は東京湾の内湾と外湾の境目近くに立地し、内湾性の魚介類と外洋性のそれと両方を利用する大きな貝塚を作る集落だったようだ。東京湾は縄文海進のころには現在の栃木県の藤岡−渡良瀬遊水地あたりが奥東京湾の最奥の貝塚地帯だったようだ。

 かつては豊かだった東京湾沿岸の干潟はそのほとんどが失われ、現在では袖ヶ浦付近の盤洲干潟などが残された貴重な干潟で、イボキサゴという山野貝塚で大量に出土する巻貝が復活したという。

 山野貝塚が国史跡に指定された主要な理由は、東京湾の最南端の大型貝塚であり、内湾と外湾ンの中間地点で双方の性格を併せ持ち、また人骨や歯を含む動物の骨が多数残されている。また周辺の環境も宅地化が迫って入るが、両行に残され、当時の景観の名残を残しているという。山野貝塚は長期間千年以上継続した拠点集落で時間経過とともに推移する集落の様子を知ることができる。後期前半が砕石機でそれ以降は縮小し、集落は内側に集約された。貝塚のほうは逆に内側から外側へと移動し、晩期になると谷の一部が埋められてローム層の土ががたまっている。晩期のいわゆる環状盛土に似ているが、住居跡かどうか詳細は不明のようだ。出土品に関しては、近畿系や東北系の土器など、遠隔地との何らかの交流がみられ、石器に関しても黒曜石や透閃石製磨製石斧や緑色岩など、これも遠隔地の石材が来ているようだ。また八丈島など南の島でとれる南海産の貝輪などの装飾品も出ている。

 講演会では動物の骨から見た山野貝塚ではスズキやマダイ、クロダイなどの大型の魚類の骨が多く出土しており、しかも1mを超えるようなかなり巨大な魚が多いようだ。動物ではイノシシやシカが多く、タヌキやムササビなどの小動物やイルカなどの海洋哺乳類の骨も出ている。東大総合研究博物館の米田氏による人骨の同位体分析からこの地域の縄文人の食生活の内容が明らかにされた。東京湾沿岸の集落では奥東京湾の集落の場合、海産物への依存度がやや低く、南部の概要に近い場所、例えば西岸の稱名寺遺跡ではイルカ漁などが盛んだったが、個人差が大きく、魚介類や海洋哺乳類を多く食べる人と植物食の多い人と別れるようで、山野貝塚でも同様の特徴があることが分かったという。つまり同じ集落でも生業の違いがあり、多様な生活パターンの人が同居していたらしい。分業体制、専業化が進んだということか?
 また千葉県立中央博物館の黒住氏は微小貝の調査から、土器製塩などがあったかどうかを検証し(製塩土器は出土していない)、藻塩製塩でよく出土するウズマキゴカイはあまり検出されていないが、カワザンショウガイなど河口の低湿地のヨシ原に生息する微小貝が検出され、こうしたものは製塩と関係が深いとみている。また晩期になって陸生の貝の検出から、一度失われた森林食性が一時戻ってきたとしている。これは人口が減少して森林が一部回復したのか、動物を呼ぶために人が手を入れたのか、不明な点が多いようだ。
 ともあれ、古い時代の史跡指定とは違い、現代の史跡指定には自然科学的な分析資料が欠かせなくなっている。「学術的価値」の判断基準は時代とともに移り変わっているからだ。 全国の3割もの数の貝塚を持つ千葉県だが、一般の人々の理解は今一つ、今日も参加者の数があまり多いとは言えなかった。それでもこの新史跡指定は今後、史跡としての保存と整備活用の長い長い継続する活動が求められ、市民の支持と支援が不可欠だ。
 シンポジウム終了後、袖ヶ浦市郷土博物館に移動して、展示を身ながら博物館学芸員の解説を聞き、博物館の窓から谷の対岸の丘陵上に見える鉄塔付近に眠る山野貝塚に思いをはせながら、再びレインボーブリッジを渡って帰宅の途についた。

写真1)東京湾の貝塚地図
写真2)山野貝塚出土の貝
写真3)博物館から見る山野貝塚(鉄塔の下)
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