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写真3は観音堂の壁画の復元
前回、ひどく混みあって入れなかった仁和寺展が、もうすぐ終了なのに気づき、あわてて展示会場に向かう。金曜日なので20時半まで入れる。5時、行列はなく、ひどい混みようではなかった。7時まに池袋に用事があるので、少し急いでみたが、最後の御室派の秘仏という最終章で時間があまりなくなったのは残念。撮影は観音堂の復元コーナーのみ。国宝と重文だらけの展示なのでやむを得ない。
特に印象に残ったには、神奈川県龍華時の奈良時代(8世紀)の菩薩坐像と兵庫・神呪寺蔵の如意輪観音菩薩坐像(平安時代・10世紀)で、とりわけ龍華時の墓雑蔵はいわゆる「脱活乾漆造」で、素晴らしい出来栄えで、きれいに残されているのが驚きだ。おそらく奈良から運んできたと思われるが、いつどのように運ばれたのだろうか?大きななぞだーー。如意輪観音は古い作例として重要であるだけでなく、古くから信仰されているだけあって、他にはない雰囲気を持っている。六甲山の甲山中腹にあるというお寺では年一回公開するらしい。
いそいで池袋に向かい、講演会はなんとかぎりぎり間に合って座ることができた。講演は「シュメール農業と土地制度」で講師は前川和也(京都大学人文科学研究所名誉教授・国士舘大学イラク古代文化研究所共同研究員)。前川氏は粘土板を書き写す作業中に、数字ばかり並ぶ異様なものを発見し、それがシュメールの能郷・土地制度を解明する大きな手掛かりとなる。欧米の学者は、聖書との関連などに関心があり、こうした粘土板に関心を示さなかったことから、前川氏の大きな発見となったようだ。当時の長さなどの単位を使って、直営地・割合地・小作地のリストと大きなが克明に記録されているという。また麦を畑に畝を作って栽培したが、欧州では16世紀にならないとこうしたやり方が成立しなかったという。しかし古代シュメール(4千年以上前)の麦生産はメソポタミアの大河の沿岸で行われたが、塩害が出てくるので、土地を転々と移して栽培したが、河川沿いの自営農民の土地より、そこから離れた土地を交錯する小作農のほうが塩害の影響が少なく、生産量を挙げることができたという。塩害の影響は大きく、塩害に弱い小麦は作られなくなり、大麦に移行したが、やがて土地生産性を失い、都市国家は滅亡していったらしい。
これらの土地はしばらく放置されていたが、ササン朝ペルシャ(3C~7C)においてはアフリカから連れてきた奴隷に土地改良工事をさせて、のちの奴隷反乱のきっかけを作ったという。文明繁栄の後には荒廃した土地が残るという歴史だったーー。
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