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2018年11月29日 12:38博物館、展示会、美術館など全体に公開

11月28日(水)三浦半島の中近世、吉井貝塚、鎌倉歴史文化交流館の出土漆器、巻向遺跡論

写真1)三浦半島で出土した古伊万里など高級陶磁器
写真2)久里浜にある吉井貝塚(横須賀市史跡)と怒田城址
写真3)昨年オープンした鎌倉歴史文化交流館の「出土漆器展」の漆器

午前中は横須賀市博物館で三浦半島の考古学の最終日、中近世の搬入品についてだ。教室の前方の展示は主として中国陶磁(主として青磁)や日本での模倣品の灰釉や緑釉陶器、さらに時代が下って近世の古伊万里ー有田焼や中国景徳鎮の陶磁器の他仏具など 三浦半島では他地域のように高級陶磁器が大量に出る場所は少ないという。中世は鎌倉に集中し、その後江戸に中心が移り、三浦半島はやや取り残されるきらいがあるようだ。景徳鎮のうつしから始まって色絵や金襴手など、一時衰退した景徳鎮に代わって伊万里焼を欧州王侯貴族が競って求めたため、東インド会社による伊万里焼の輸出のピークは1670〜80年代にピークを迎えた。しかし復活した景徳鎮との価格競争に敗れ、やがて輸出は減少に転じ、18世紀を過ぎると欧州でマイセンなどで欧州独自の磁器生産が開始され、有田焼は国内向け生産に転じることになる。また今回、出土品委は出ていなかったが、有田では将軍らへの贈答品として「鍋島」を生産、明治期にジャポニズム、万博などを通じて再び海外輸出が盛んになるまで、日本の陶磁器は主として国内向け生産だった。17世紀後半の伊万里焼の輸出品は今日、世界中で見つかっている。
 先週、土浦の上高津貝塚資料館で見た吉井貝塚を見に行きたくなったので、横須賀市立博物館の1Fの展示室で再度、吉井貝塚の展示を見た後、講座終了後、横須賀中央駅から京急久里浜に出て、吉井貝塚まで歩く。大楠山東方付近から久里浜港まで流れ出す平作川流域は、三浦半島で数少ない平坦地を作っており、江戸時代には河口近くをのぞいて新田開発のための埋め立てが行われ、残った内湾も土地の隆起で湿地化したらしい。京急が久里浜駅に向かって湾曲し、JR線と合流し、あちこちに小さな給料が見えてなかなか複雑な地形でどこが吉井貝塚のある丘陵か、駅からでは想像できない。とりあえずナビに従い、京急の左側、JRとの間の細い道を戻るように進み、平作川に沿った広い道に出て左折して少し進み、平井川を渡ってまもなく右折して京急の左側を進んでその先で京急をくぐり、目のまえに吉井貝塚があると思われる丘が見える。しかし案内板はどこにもなく、入り口がわからない。不安に思いながら、進んでいくと
住宅と駐車場の間の細い道を目で辿ると、看板と会談が見えてきて、入り口と分かる。階段を上り、小さな給料の先端のやや平たんになっている丘陵上に出る。先端に向かってさらに進むと第一貝塚あたりが見え、さらに奥に進むと第二貝塚地点に出る。杭列で示された竪穴住居跡は前期のものらしい。この台地上には貝塚だけでなく、弥生時代から古墳時代の集落跡や古墳後期の横穴墓、平安末期の怒田城址の遺構なども出ているようだ。貝塚の奥には弥生時代の建物の位置も示されている。丘陵上からは久里浜や浦賀の街並みがよく眺望できる。この遺跡の標高は25m前後、丘陵全体の最高地点は75mくらいあるようだ。貝塚の周辺に空堀跡が示され、三浦氏の山城・怒田城址の位置らしい。ここはヨコスカという観光案内HPには
「三浦氏により築かれたと伝えられています。海上活動を活発に行っていた三浦一族は、まさに「海の武士団」とでも言うべき集団で、怒田城址はその根拠地でした。
衣笠合戦の折、和田義盛は「要塞堅固な怒田城で戦おう」と主張しましたが、大介義明は「衣笠城こそは世に聞こえたる城よ」とその意見を退け、衣笠城に籠り戦いました。
おそらく衣笠城の落ちる寸前に三浦一族は密かに間道を通ってここまで逃れ、隠しておいた船に乗って安房を目指したものと言われています。船を置いた一帯には、「舟倉」という地名が残っています。
現在この地は「吉井貝塚を中心とした遺跡」として、県指定史跡になっています。 」

と書かれている。この台地の標高の高い位置には怒田城址の核心部があったのだろうか?

吉井貝塚を後にして、JR久里浜駅に出て鎌倉に向かう。昨年オープンした鎌倉歴史文化交流館は今回初めて。一度は尋ねてみたいと思ったので、今回出土漆器展をメインに見学することにした。地下水位の高井鎌倉では中世の武家の首都であったこの地の地下に眠る漆器が朽ちることなく保存されているらしく、出土量が多いという。縄文漆器は別として、古代では一握りの貝層が湿気を贅沢品として使っていたが、中世ではより下層の人々も日常漆器として  使う様子が絵巻物に残されているが上層階級の人しか理解できないであろう歌枕などの絵の施された漆器もある。一方、鎌倉彫の歴史を見ると、鎌倉時代に中国から移入した禅宗の関連で仏具として伝わった盆や香合の彫漆品の影響を受けて、物資たちが製作を始めた仏具づくりが鎌倉彫の起源のようだ。
 また常設展示では縄文土器や石器から始まり、展示品は少ないながら弥生、古墳・古代などの出土品が並べられている。古墳時代の籠手は関係に近く残りがよいもの。

 鎌倉幕府が終焉し、武家社会から農漁村に戻った鎌倉だが、江戸時代に謝辞の再建・修復が幕府により進められ、社寺参詣地、観光地としての鎌倉の基礎が作られ、水戸光圀が偏在意を命じた「新編鎌倉志」などが与えた影響は大きかったらしい。

 交流館の一つの目玉として、発掘された永福寺(ようふくじ)のVR復元がある。数年前、鎌倉のハイキングコースを歩いた時に見かけた永福寺の遺構跡、頼朝が奥州藤原氏討伐時の多くの家臣の犠牲者の鎮魂のために創建した寺だが、その後は迎賓館のような使われ方をしたという。朱塗りの寺と贅沢な庭園を訪れた人々は楽しんだのだろうか?VRは特殊なメガネを装着すると360度の寺院景観の復元を見ることができる。またこの施設はかつて岩崎弥太郎が別荘として使った場所に英国の著名な建築家の事務所が設計した優雅な雰囲気の建物で、外には中世の「やぐら」という横穴式墳墓や大正期に掘られた横穴(岩崎家の貯蔵庫?)、丘の上には江戸時代の刀工屋敷跡を偲ぶ刃稲荷があったらしく、岩崎家がそれを偲ぶ合鎚稲荷を送検したが、現在はその跡だけが残されている。
 交流館を後にして御茶ノ水で開催される弥生時代講座の最終回に向かった。唐古鍵遺跡と纏向遺跡との関係、土器その他の出土品の見当から東瀬戸内と出雲、丹後らの連合が主体となり、北部九州など多くの地域首長が参加して首長連合が築いた纏向遺跡と初期古墳の形成過程の話は納得できるがなお不明な点も多いと思われた。
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