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2019年02月18日 04:55博物館、展示会、美術館など全体に公開

2019年2月15−16日(金・土)瀬戸内海の海人展と徳島愛媛の遺跡巡りー徳島1

写真1)国史跡 阿波国分尼寺跡
写真2)宮谷古墳
写真3)矢野古墳石室内

瀬戸内海と海人に関する展示と講演が愛媛県立歴史文化博物館で開催されるので他の遺跡博物館巡りも兼ねて出かけてみた。愛媛県立歴史文化博物館ではこの秋にせとないかい!の遺跡海人文化に関する総合的な展示を開館20周年企画展として開催予定で今回はその予告展のような役割をはたす展示のようだ。
 せっかく四国まで行くので、夜行バスで徳島まで行き、徳島の遺跡や博物館を半日見学し、愛媛県の妙見山古墳も見学して、翌日愛媛県内のいくつかの遺跡や考古資料館などを見学し、卯之町にある県立歴史文化博物館が最終ゴール地点となる。

 徳島駅バス停に6時半前に到着、松屋が目の前にあったのでそこでうどんと牛丼小皿を食べ、7時過ぎに阿波踊りの赤いポスト前で予約していたタクシー(一時間4200円)に乗り、出発。まず阿波国分尼寺跡を探す。文化財を含め、京都や九州など遠距離の他県まで観光客や芸能人を乗せて走っている運転手であったが、このあたr地元の国指定史跡を知らなかったが、ままあること。こんな遺跡を見に来る観光客は余りいないようだ。
 徳島駅から伊予街道(192号線)を進み、尼寺交差点を左折し、尼寺跡を探すが行き過ぎてしまい、バックして細い道を斜めに左折ししばらく進むと空き地が見え、阿波国分尼寺跡に出る。大半が発掘後埋め戻して、空き地になっており、解説板を見ると昭和48年には国指定史跡になっている。国分尼寺の位置や広さがわかる全国的にも貴重な遺跡とあるー史跡整備事業は平成に入ってから、石井町により進められているというが、予算不足のためか、なかなか整備は進んでいないようだ。金堂の位置を確認したようだが、何の標識もないし、基壇跡の位置もわからない。文化庁のデータベースには、
「S48-05-137[[阿波国分尼寺]あわこくぶんにじ]跡.txt: 阿波国分尼寺跡は、徳島市の西方、吉野川と鮎喰川の合流点に形成された沖積平野の奥に位置している。
 当地は、字名「[[尼寺]にんじ]」によって古くから尼寺跡として推定されてきた。最近の発掘調査により金堂跡・北門跡・廻廊跡をはじめ、寺域を限る築地およびそれに伴う堀が明らかとなった。この結果、付近の条里地割との関連からみて、方1町半の寺域を推定することが可能となった。本尼寺跡は、全国的にみても尼寺跡としては、その状況が明らかな部類に属するものといえる。」

次に阿波史跡公園に向かう。途中、矢野古墳群の道路案内板を見かける。考古資料館付近らしい。先に史跡公園に向かう。入口駐車場にタクシーを止め、正面にある復元竪穴住居・高床倉庫を見る。縄文時代から古墳時代まで、主要な住居、建物として使われたが、長持ちするように丈夫に作られ、少なくとも弥生以降の建物のように見える。夜行バスで体がなまったので、復元住居から上のやまびこの森〜大泉神社方面の山道を登る。神社の下の遊園地のような場所まで歩き、時間が気になり、タクシーに戻り今度は公園内にある宮谷古墳を見学する。タクシーで古墳脇を上ると入り口がないことがわかり、下まで戻って歩く。3世紀末の出現期古墳で徳島県では最古級の前方後円墳―全長40mほどのばち形の古墳で標高50mの尾根上に築かれている。墳丘の形は、長年の風化のせいか、削平があったのかよくわからない。史跡指定は出ていなかったが重要な出現期古墳であることに変わりはない。

 次に阿波国分寺(現存の寺)に向かう。事前に電話したところ、現在本堂工事中で有名な庭園は声をかけてくれれば無料公開しているという。正式には9時開演だが、声をかければ7時から見学できるという。境内に入ると寺の住職が歩いて生きたので挨拶、すると電話の方かと尋ねたのでそうだというと、さっそく庭園に案内され、関連資料も見せてくださった(雑誌の写真解説などだがーー)このエリアは現存国分寺を含め、200m四方以上が阿波国分寺跡として国史跡に指定されているようだ。境内には7重の塔の心礎という巨大な石がある。庭園は結晶片岩の「青石」を主役とする桃山時代の庭園デザインを示す貴重なものらしく、国の名勝に指定されている。なかなかの雰囲気のある庭。備前焼の大甕が置いてあり、庭の池跡から発見され、かつては行けの湧水を受ける施設の一部だったようだ。住職にお礼を言おうとしたが姿が見えないのでタクシーに戻り、考古資料館に向かう。まだ9時まで20分もあるので、先に矢野古墳群を探す。グーグル地図を見ながら考古館の西側斜面にそれらしき施設が見え、歩いていくと石段があり、斜面にある石室開口部や矢野古墳群・気延山古墳群の標識が見える。一段上に進み、矢野古墳まで続くと思われる脇道があるのでそこをたどると古墳の上に出てようやく入口を発見、12mの円墳で開口部は破壊されているものの、両袖式の横穴式石室はしっかりした造りで完璧に残され、見学可能、持ち送り式の石積みで副葬品の須恵器から6世紀後半築造〜7世紀初めころまでに埋葬されたもの、国府成立直前のこの地の有力豪族の様子を知ることのできる貴重なもので県指定史跡。この気延山一帯は弥生末方古墳時代終末にかけて数多くの有力者の墓が築かれたらしい。山の上まで歩きたかったが、途中で時間切れ、9時に間に合うように資料館に戻るーーしかしーー開館9時半――ガーンーー入り口が開いているので思い切って入って職員に声を掛けたら、時間前だが見学させてもらえてラッキー、ありがとうございます。

 常設展示では縄文土器から奈良平安時代の墨書土器や阿波国分寺の瓦などまで展示がある。古墳時代では今回見た宮谷古墳の鏡、鉄器、管玉、ガラス玉などの副葬品、矢野古墳の須恵器や気延山古墳群出土品(鉄鏃や馬具など)の他、5世紀の鉄製武具が多数出土した重要な恵解山古墳は高度成長時代の宅地開発で大半が破壊されてしまったらしい。
 企画展として「阿波国府跡」に関する展示もあった。国府跡はまだ解明されていないが、国府町の観音寺遺跡を中心に関連遺物が多数出ていていくつかの説が出ている。出土木簡や墨書土器が展示されている。残念ながら今日は午前中に徳島市内の多数の施設を回るため、時間切れで次の徳島県立博物館の中にある鳥居龍蔵記念博物館に向かう。ここは多分初めて。前回徳島に団体の遺跡見学ツアーできた時は来ていない。今回は準備中に鳥居龍蔵記念博物館の存在を知り、なんとか時間を作った。

 入場料は65歳以上は半額の100円、今年からジパング倶楽部などJRや博物館入場料は減額となり、助かっている。鳥居龍蔵は明治3年(1870)徳島市東船場生まれ、明治時代から昭和まで活躍した人類学者の草分けで考古学・民族学の分野でも多くの業績を上げ、世界的に評価の高い人類学者だが、学歴のない在野の学者で一時助教授を務めた東京帝大を辞して私的研究所を作り、在野の学者として生涯を送った。師と仰いだ東京帝大の坪井小五郎のコロボックル説に関し、坪井の要請で調査した千島アイヌなどの調査の結果、師の日本先住民コロボックル説を覆すことになる。鳥居は地元や日本各地のみならず、台湾、中国、サハリン、カムチャッカ、千島列島など多くの土地でフィールドワークを行い、当時の交通の上j鏡を考えると驚くべき足跡を残している。
 今回は記念博物館では「鳥居龍蔵と小金井良精―日本人の紀元を求めて」の企画展と常設展を見る。

学歴のない鳥居だが、当時の東京帝大の坪井小五郎に師事してその指示に従って北海道ばかりか千島、カムチャッカなどでアイヌや北方民族の調査を行い、やがて師の論的だった小金井良精の日本人先住民(石器時代人)=アイヌという見解に傾いて小金井とも親交を結んだようだ。安政五年(1859)に長岡藩士の子として生まれた小金井は鳥居とは異なり、戊辰戦争後東大医学部の前身の医学校に入学し、ドイツ人のドイツ語の講義を聞き、やがてドイツに留学し、解剖学を学ぶ。ドイツ人類学・解剖学の手法に従って人骨計測などを行い、やがて古人骨研究も行うようになった。鳥居は国府遺跡や城山貝塚の調査で小金井と交流し、日本人の源流について議論を交わしたらしい。鳥居は小金井より11歳年下だが、互いに自説を曲げない頑固者同士だったからか、けんか別れをしたらしいーー。小金井は日本の古人骨研究の草分けだが、北海道でアイヌの墓から166の頭骨と副葬品を持ち出し、研究には貴重だったが、後にアイヌ民族から批判が起こることになり、北海道の大学や博物館、日本考古学協会や人類学会と北海道アイヌ協会とでアイヌ人骨や副葬品の取り扱いに関する円卓会議で報告書をまとめ、古人骨や副葬品の返還や研究者の倫理条項をまとめている。

 もっとじっくり見たかったが、残念ながら今回は駆け足の見学にならざるを得ない。本当な同じ施設内の県立博物館の考古や自然環境などの常設展示も観たかったが、残念ながら時間切れ、次の機会を待つしかない。予定時間を五分ほど過ぎ、急いでタクシーに戻り、次の徳島県埋蔵文化財センターに向かう。吉野川を渡り、35分ほど走って到着、「四国の彩」という色を主役とした考古展で四国4県を巡回する企画展で、徳島が最後のようだ。白色凝灰岩製の石棺の白、耳飾りや馬具の金色、ガラス玉の青や緑、赤銅色の青銅器、結晶片岩の緑っぽい縄文時代の石棒、焼き物の色比べなど、面白さもあるが、あまり内容がないともいえる。この後常設展や常設展の一部にある企画展の「赤=朱」に係る展示もあり、前回行くことのできなかった阿波水銀鉱床群の中の阿南市の「若杉山遺跡」と水銀朱の生産と利用に関する展示もあった。ただこの内容なら県立博物館を優先するのだったかと悔やむも手遅れ、まあ、その時々のチャンスを生かしていろいろ見ていくしかない。事前にいろいろ調べても実際に見てみないとわからないことも多い。

 時間になり、再びタクシーで板野駅へ。ここでタクシーに支払いをして11時47分発渦潮2号で12時34分高松へ。高松から予讃線で讃岐府中、そこからタクシーを予定ーここで問題―この箇所だけまだタクシー予約していなかったー駅にタクシーがいるかなと思い油断したが、それどころでなかったー高松へ向かう車中、タクシー会社何社かに電話、しかし予定の13時9分に間に合わせるのは無理という―無理でも少し遅らせればよかったか??ーいろいろ考えたが、結局高松で下車し、タクシーを拾う。しかし香川県埋蔵文化財センターを知らない。高松市でなく坂出市内になっている。讃岐府中駅の近くだが、会社に連絡してナビを出してもらうまでに時間がかかる――失敗。結局、同センターに到着したのは出発10分前、あわててざっと見て回る。
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