写真②上ノ平Ⅰ遺跡出土の焼町土器
写真③?Ⅱ遺跡出土の横紋中期の土器(八ッ場ダムではなく、吾妻川のさらに上流の支流の遅沢川の左岸にあり、偶然
嬬恋村郷土資料館からやんば天明泥流ミュージアムに向かう。この八ッ場ダムに沈んだ地域では、ダム建設工事に伴い、集落全体を発掘調査するような特別な発掘調査となった。そのため、江戸時代の浅間山の大噴火による天明泥流災害の跡を示す災害遺跡と多くの集落が成立していた縄文時代の遺跡が特に目立っている。3時半前に到着し、まず企画展の最新発掘調査で出土した縄文土器などを見る。ピカピカに磨かれた縄文後期の注口土器が中央のガラスケースに並ぶ。完形の素晴らしい土器で美術作品としても通用しそう。他にも主として縄文中期を中心とした土器の優品美品が展示されている。群馬と長野の境に近いこの地域(長野原町)の中で、八ッ場ダムの底に沈んだ多くの遺跡では長野、群馬方面の両方のタイプの土器がみつかる。上ノ平遺跡では焼町土器が特に多く見つかったようだ。また関東系土器、南東北系土器などもあり、吾妻川流域は当時の重要交通ルート上にあったと考えてよいのではないか?八ッ場ダムに沈んだ縄文集落は規模が大きく大きな集落が連なっていたと考えられる。
また弥生時代になると集落の姿が失われ、大きな流れとしては稲作を中心とした農耕の波が押し寄せ、人々は次第に低地に移動したとされる。一方、弥生時代の遺跡が全くないわけでなく、ミュージアムの常設展示では弥生時代の土器も並んでいる。学芸員のお話では、集落遺跡は見つからず、一軒だけの住居は球に見つかる。展示の土器はお墓からの出土で、おそらく再送墓であろう。集落が見つからず、お墓ばかり見つかるのは、弥生時代の関東地方ではふつうにみられる状況だろう。
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