写真2.桜川上流の狐塚古墳出土の短甲、鉄剣など写真3.大洗市の日下ヶ塚古墳の長頸朝顔形埴輪
土浦駅プレイアトレ地下のシェアサイクルを借りて上高津考古博物館に向かう。5キロ位の通いなれた道だが道を思い出すのに少し手間取る。土浦入に注ぐ桜川を渡り、土浦板東線方面に右折して354号線を渡り、少し先を斜め左に進み、上高津の信号で6号国道を渡って進むと緩い上り坂になり考古博物館のある史跡公園に出る。早速霞ヶ浦に臨む王の展示室に向かう。展示の始めにこの地域の弥生時代から古墳時代への移行期の土器が示される。弥生時代前半期は、この地域のみならず利根川以北の関東の多くの地域でお墓しか見当たらず集落の痕跡が見えない地域が多い。農耕生活に移行していたのかどうかもはっきりしない。弥生時代後期になると農耕の痕跡が現れ、その時期には南関東から人が入って農耕を伝えたのか?そちらの土器の影響のある、上稲吉式土器などが出土し、羽状縄文にもう一つ縄文を重ねる附加条縄文という紋様の入った土器がみられる。
霞ヶ浦は、古墳時代、古代には、今よりはるかに大きい海と直結した香取の海と呼ばれ、関東東国から陸奥エリアに至る重要な水上陸上交通の要衝で、交通や交易を支え、管理することで大いに反映した地域であり、またヤマト王権ー律令国家にとって極めて重要な戦略的な地域でもあった。このエリアは土浦入、高浜入ー恋瀬川、桜川流域、霞ヶ浦南岸、利根川下流地域などに分けられる。それぞれの地域首長らは、水上陸上交通のネットワークを形成し、富を蓄積した。
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