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開会あいさつの後の各講演は、午前中に
1)西富岡向畑遺跡の発掘調査ーかながわ考古学財団の発掘担当者の発掘調査の概要とキーポイントの報告(新開基史)
2)「地質学から見た西富岡・向畑遺跡の植物遺体と産状と層位」=地球の星博物館の地質学地球科学専門家による地質学的な見解=西澤文勝)
3)「5m泥土に押しつぶされたアブラゼミームシとヒトの災害史の研究」森勇一(昆虫考古学)
昼食休憩
4)「出土木材の樹種から見た西富岡・向畑遺跡の縄文晩期の埋没林」能代修一
5)「西富岡・向畑遺跡の酸素同位体分析」木村勝彦(福島大学)
6)「西富岡・向畑遺跡の埋没林から見る縄文晩期の古環境」佐々木由香(金沢大学)
7)討議
まず、発掘調査担当者から遺跡と埋没林の位置や概要の報告があり、新東名高速道路工事に先立つ調査でまず、上の時代から順に地層を剥いでゆくと縄文後期の集落跡が現れ、水場遺構周辺には、トチやクルミなどを加工した跡が出ている。それらは、何らかの理由で3,500年前くらいに集落は消滅している。埋没林はその遺跡より東南にある斜面の下側における地滑りでにより薙ぎ倒され、一気に埋まって、何らかの理由で
腐らずに地中にとどまった。年代測定の結果、BC1131年頃と判明している。しかもアブラゼミが存在するのでその年の7月以降の1-2ヶ月の間に起こったのか?樹木や昆虫、草やササなどが新鮮な状態で保存されていたことから、谷に近い場所でその直上の斜面が一気に崩壊し埋もれたと解釈した研究者が多かった。
また、埋没林の少し下の層から今から3200年前後の時期に発生した天城カルゴ平火山灰テフラも検出され、このテフラと地滑り、埋没林との関係もよくわかっていない。このテフラの年代の下限の3180年前をとっても地滑りまで五十年あり、この時期の気候状況とも関連するだろう。地質学者の西澤氏は、慎重に地滑りという言葉も留保し、斜面崩壊という言葉を使う。
埋没林はケヤキやカエデなどの自然林ないしは二次林であり、不思議なことにそばでかつて暮らしていた縄文人が管理していたクリやドングリの実る樹種は存在しなかった。おそらく後期集落がなくなって数百年の間に縄文人が作り出した里山はなくなり別のタイプの森林が成立したのだろう。しかし一方で、昆虫の解析からは、森林性昆虫以上に人里を好む害虫とされる虫が多くの検出され、この場所の古環境に関しては見解は一致していない。埋没林に関してはかながわ考古学財団が、まず、今回の報告者の能代氏に調査を依頼し、能代氏は佐々木由香氏を伴って現場を見学、その時、大変稀なケースなので丁寧に発掘して全容を解明する必要を唱えた。同財団では埋没林そのものは人為的なものの関わりがなく文化財ではないので時間をかけずに調べるつもりでいたが両氏は、古環境を調査するまたとない機会なのでじっくり調べるよう説得し、神奈川県立地球の星博物館を中心に自然科学調査チームを設置することに決まった。調査はまだはじまったばかりで今後の成果に注目したい。
日本国内で先史時代の埋没林はぐく一部からしか発見されていない。旧石器時代の地底の森ミュージアム、三瓶山麓にある「さんべ縄文の森ミュージアムでは、立ったままうずもれた森がみられるようだ。こうした埋没林を調査するには、森林科学、地質学、昆虫、植物学、古環境学など様々な科学者の協力がなければ成り立たない。今日はこうした分野の第一人者ともいうべき人々が伊勢原市市民文化会館に集まった数百名の聴講者にできるだけわかりやすい解説、考えを披露したが、やはり「そう簡単ではない。各講師の議論を理解することもそう簡単ではなく、また事象の解釈に様々な違いが出てきて、当然ながらこうした様々な見方をより真実に近いものにしていくにはまだまだ多くの作業、研究が必要なようだ。
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