![]() |
![]() |
![]() |
さて、新沢千塚古墳群が見えてきて右側の施設内にチャリを停め、エレベーターで施設内に入るとそこは、橿原市のシルクの杜で、教室や体操などの会場となっており博物館ではなかった。これまで二度ほど訪問したが、いつも施設の位置や繋がりが飲み込めていない。午後の講演会は、ここで行われるようだ。時間も二時でなく一時半だった。十二時半から受付が始まると言うのであと30分急いで展示を見に行く。
企画展の龍王山古墳群は、展示品は多くないが、後期から終末期の群集墳とは、どのようなものか理解しやすいように整理されていた。比較として、龍王山初源と同時期、6世紀後半の牧野(ばくや)古墳の横穴式石室と出土品の展示、解説があり、規模、墳形、副葬品で階層を示す古墳の論理が示された。次に龍王山古墳群の中でも発掘調査がなされたD.C.E群についてそれぞれ展示と解説があり、墳形は最初に円墳、方墳があり、この時期には畿内では、既に前方後円墳は、無くなり、あってもごく小さいものになっている。ただし、副葬品は須恵器などの他、金銅製馬具や銀製太刀なども入っていてそれなりに階層性を表現している。また、方墳などの古墳のそばには小石室と呼ばれる小さな墓があり、この集団に属する下の階層の人々らしい。しかしその後、薄葬令がでて、お墓も横穴墓に移行し、副葬品は土器だけになって行く。横穴墓は、正面から見ると横穴式石室を模してあり、それなりの階層性の表現はあるものの、次第にその効力は失われ、奈良平安時代まで墓域は続き、火葬墓となって行く。この龍王山古墳群は、飛鳥時代以降王権の上位役人層を中心とした墓域と見られ、物部氏や柿本氏等が想定されているようだ。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する