畝傍御陵前から大阪の谷町四丁目までどのコースが早いか迷ったが橿原神宮前から阿部野橋なでて、谷町線に乗ったが大和八木から鶴橋経由が早かったようだ。谷町線の谷町四丁目からいつもはスムースに大阪歴史博物館に出られるのだが今回はいつもと違うルートを辿ったのか出口も異なりいつもと違う風景の交差点に出てしまう。博物館もNHKも見えず方向がわからなくなり通行人に尋ねてやっとわかった。NHK側から十二時半過ぎに博物館に到着し、四階のシンポジウム会場の受付で資料を入手し、時間まで目を通した。最初の講演者は、長く難波宮遺跡の発掘調査と整理、研究、保存などに携わってきた長尾芳治氏が発掘調査と研究史、保存運動の歴史を辿った。限られた時間の中で調査のパイオニアの貴重な話を聞くことができた。難波宮の調査は戦前の法円坂町から見つかった古瓦や鴟尾から、日本書紀などに出てくる難波宮との関連が指摘されていた。戦後の発掘調査で、鴟尾出土地点周辺調査では当たらず、瓦発見地点の調査で難波宮の姿が現れた。
長尾氏は出土土器の研究から年代的に孝徳朝の難波豊碕の宮との関係が有力と考えた。その後の長い発掘調査の中で前期後期の難波宮などの各時期の遺跡、遺構が次々に見つかった。最後の市大樹氏(大阪大学)は、大化の改新が一時半分否定的な扱いになりそうだったが、難波宮の古い木簡の出土から大化の改新の存在は否定できなくなったこと、蘇我氏の飛鳥を離れてこの地で新しい集権的国家体制を志したこと、しかし❗中大兄や妻の斎明と仲違いして孝徳は難波宮でなくなり、飛鳥京に移ってしまい孝徳の構想は一時頓挫したこと、しかし難波宮と四天王寺は、その後も九州と大陸を結ぶメインルート上の拠点都市として生き続けたようだ。百済滅亡、白村江の戦いに敗北し、祖国に帰れなくなった百済王氏(こにきし)を中心に百済やその他の亡命渡来人ら渡来系氏族が中心となって上町台地の開発が続けられた。
二番目の谷崎氏(近つ飛鳥学芸員)は、そうした歴史の中で四天王寺がいかに創建され、その後渡来氏族に引き継がれて鎮護国家の大寺として、大阪のシンボルとして生き延びたきたことを瓦の変遷から読み解いていった。
何と言っても前期難波宮の意義は、その後の都城建設に与えた影響だろうか?
飛鳥に戻った時は元の小さな宮に戻ったがその後の藤原京建設の原型となったようだ。難波京は長安の都城をモデルとして建設され、その意義が認められたようだ。斉明天皇が大陸派兵のさいにも難波宮に立ち寄り九州でなくなった。
これまで難波宮と言われてもピントと来なかったが、大化の改新の詔がここで発せられ、その後の都城と政治史に多大な影響を与えたプロジェクトなのだと考えさせられる遺跡だった。
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