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図録の解説の要約
弥生時代以降の生駒山西麓産土器の展開
弥生前期ー淀川水系→旧大和川水系→大阪湾を通じて繋がる範囲に分布ー水田耕作民ネットワークの広がりを反映
中期ー より西、北、東へと広がるーこの時期の西麓産土器は一見して他地域土器との違いがわかる個性的な形と装飾を持つ。ブランド品的価値を持ち贈答品として運ばれた可能性がある。
後期ー西麓地域の土器が近畿全体をリードする形で新たな土器様式が始まる。個性は薄まるが大型壺は、なおブランド品扱いで、西は南九州、東は北陸まで運ばれた。北近畿でも多く出土し、この時期日本海交易ルートが活発化した。
弥生終末期は、全国的に文物の移動が盛んになり、西麓産土器、とりわけ河内型庄内式土器が西日本各地で大量に見つかっている。ヤマト王権成立前夜の瀬戸内海ルート、大平洋ルート交易の活発化、恒常化か推定され、広範囲の西麓産土器分布から、その広域的な政治、経済的背景を読み取る可能性がある。
古墳時代に入ると下火になり、渡来系のどうぐなど、特殊なものとなり、古代奈良時代以降は祭祀ぐなど都城の特殊な需要に限定されていくらしい。
展示品を観察しスケッチしているうちに展示解説が始まったが前回参加したのでスケッチを続ける。見学を始めて改めて船橋遺跡の凄さを感じた数ヵ月前に亀ノ瀬に向かう途中で船橋遺跡の辺りをチャリで走り回ったが、縄文土器から船橋廃寺の時期まで、様々な土器や瓦、礎石などが出ており、これらは江戸時代の大和川付け替え工事以降流路変更で川底や川原の下の遺跡が新た流れにより洗われて土器などが完形に近い状態で多数発見され、多くは表採だったようだ。
11時半前になり駅前のカフェでランチ。近所の何人か高齢女性がランチを食べている。おひとり様のランチの風景ーこちらもおひとり様だ。日替わりのハンバーグ、エビフライカレーを食す。
展示室に戻り、弥生時代終末期の庄内甕西麓産をいくつか見てスケッチ、古墳時代にはせいろくさんは下火になり、渡来系の羽釜など特殊事例中心、奈良時代も祭祀用、瓦など。
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