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まず、千葉北部の弥生時代では、これまでの弥生時代の常識では理解できない複雑な様相があり、神奈川の中屋敷遺跡など弥生時代中期に灌漑稲作が導入された地域と違い、より遅れて灌漑稲作が現れる。講演者は、以前八千代市で発掘調査に携わり、印旛沼周辺は、丘陵地域が多く、そのなかに谷が刻まれる地形で、灌漑稲作が可能な場所でない。しかし、土器圧痕からは、稲実が中心であわきびなどの畑作関連作物種実は出てこないようだ。さらに、トチなど縄文時代からの生業の継続を示唆するものも出ているようだ。お墓も再葬墓の時代から、中期後葉に方形周溝墓が出現するが。後期に入ると集落が見えなくなり、中塚氏の言う気候変動と関連するのかも?その後再び集落と灌漑稲作が復活するが、今度は荒川水系の人々が移動してきたようだ。方形周溝墓も集落規模からするとごく一部の階層のお墓しかなく階層化が進んだと考えられるようだ。講演者はこの様子を激動の弥生時代と評していた。
次の武蔵千葉市の話も千葉介、鎌倉公方、関東管領、足利氏、上杉氏、太田道灌、北条氏ら、関東の中世から戦国時代を彩る人々の話で中々貴重で興味深い話だった。
また、会場の千葉市生涯学習センターロビー展示では、古墳時代から古代の遺跡の発掘調査の出土品が展示されていた。
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