河内湖は、かつて縄文海進期には海だった河内エリアが、砂の堆積で潟湖となり、稲作や金属器などの新しい文化が流入する水上交通の要衝となった。朝鮮半島と日本海や瀬戸内海をつなぐには、外洋船が必要だが、久宝寺遺跡や蔀屋北遺跡などから出土した船材を転用した井戸枠には、そうした準構造船の存在を確かめることができる。また久宝寺遺跡からは、準構造船の舳先も出土し、推定復元すると12メートル以上となる外洋船だったことが判明している。こうした船が停泊する港は、発見されていないが、万葉集などにたびたび出てくる「難波津の位置がどこでもあるか、様々なすいていがあり、今回の展示では、大阪湾への出口の手前にかつて存在した潟湖辺りとしている。難波の堀江も、同様に推定の域を出ていないが誰の説が忘れたが、河内湖出口にはかつて土砂が堆積して浅いために海水が逆流するので、そりを避けるため堀江(運河)を開削したという人もいた。
次に第二章鉄器生産についての解説。第一章でも出てきた渡来人と鉄器生産の密接な関係が示されている。
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