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最初に明治33年(1900年)、浅井忠の「少女立像」など浅井忠の水彩作品を見る。浅井忠は幕末に佐倉藩士の家に生まれ、上京して外国語や洋画などを学び、東京美術学校教授となってからフランスに留学、帰国後、京都で聖護院洋画研究所を開設し、安井倉太郎梅原隆三郎らを育てた。写真1)の少女立像は、フランス留学の際に同じ船に乗船した舞子の少女を描いたもの。他にも浅井忠の水彩が多数展示されている。
次に初期の近代彫刻を見る。当時、近代西洋美術を学ぶために欧州から様々な教師を招いた。彫刻家のラグーザもその一人で、「日本の婦人像」は教科書でもよく見る作品だ。次に荻原守衛の「北条虎吉胸像(1909)」木彫や石像などの伝統があるためか、近代彫刻を学ぶスピードの速さに驚く。守衛は米国(NY),フランスなどの留学し、アカデミージュリアン在学中にすでに学内コンペでグランプリを獲得するなどの実力を示していた。この作品は親戚の帽子屋の像らしい。重要文化財指定はほかに同博物館所蔵の「女」(いずれも石膏原型が重文指定)がある。
次に後藤貞行作の「馬(写真2)」。1850年生まれの紀州藩士次男、幕末上京して騎兵所で学び、廃藩置県後、兵馬術を学ぶ。明治13年、軍馬局に勤務した後、高村光雲と知り合い、木彫を学ぶ。光雲は光太郎の父であり、「老猿」などが有名だ。長年馬に関わってきた後藤貞行らしい素晴らしい作品だ。次にいくつか、近代日本画の作品を見る。明治26(1893)年、いずれも米国で開かれたコロンブス世界博覧会に出品された森川曽文作「群鹿」、橋本雅邦作「山水」、岸竹堂筆「虎(写真3)」、いずれも博覧会で大いに話題になった作品。岸竹堂は幕末から明治初期の日本画家で、虎の絵は若い時から描いていたものの、本物の虎をサーカス団来日時に見て以来、衝撃を受けて、写実的な虎の絵を描くことに執念を持ち、一時、精神を病んだとみなされて入院するも、最後は米国博覧会で小音るほど、世界でも認められたということです。すごい迫力ですねーー。古美術中心かと思いきや、意外と近代美術もなかなかのコレクションでした。
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