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2014年02月26日 14:04博物館、展示会、美術館など全体に公開

2月20日(木)江戸博講演会「明治の浮世絵」

「大浮世絵展」に関連する講座の最終回「明治の浮世絵」の講演があるので、昼過ぎに江戸博まででかけた。展示入れ替えの最終回なので、講演の前に展示を見る。主として展示替えの作品と幕末明治大正の作品を中心に見る。

 特に幕末・近代の浮世絵が印象的。江戸時代では、最新ファッションや文化の最先端を伝えるのが浮世絵の大きな役割だったが、幕末から近代の時代の変化を視覚的に伝えたのも浮世絵だった。次第に写真や近代印刷技術に取って代わられつつあったが、どっこい様々な形で生き残ったのが浮世絵の伝統、それを継承する絵師や技術者たちだった。

 世界中から浮世絵の名品、重要作品を集め、その創成期から近代までの歴史が俯瞰できるような展覧会にしようという大きな狙いのあるこの「大浮世絵展」では大きく六つの章立てをした。最後の章を当初は「浮世絵の残光」としたが、5年間の準備の間にそのような残りかす的な評価ではなく、その役割と芸術性、美術史的な意味を積極的に評価し、「新たなるステージ」というように表題を変えた。

 幕末から明治にかけて浮世絵は時代の動きを映す報道的な性格を持った。幕末維新前後の様々な事件や舶来風俗を活写する落合芳幾(よしいく)揚州周延(ちかのぶ)、歴史画、美人画を含め、幅広い画題に取り組んだ月岡芳年、西洋画の表現や化学染料を取り入れ、光と影の表現が印象的な小林清親、役者絵の豊川国周(くにちか)らが活躍する。

 その後、写実表現に向いた石版画や銅版画および写真の量産体制ができ、明治半ば以降、木版画は主役の座を追われる。しかし大正期になると、浮世絵の伝統は「新版画」として蘇る。渡邉庄三郎を版元として、橋口五葉、伊藤深水、山村耕花、川瀬巴水らが登場し、新たな時代を作っていった。

1:幕末の諸相−報道性、文明開化、残虐性、洋画の影響、絵具と紙の変化と伝統

落合芳幾(天保4年〜明治37年=1833〜1904):
1.「東京両国川開之図=明治4年」 は例えば渓斎栄泉(けいさいえいせん=寛政3年〜嘉永元年=1791〜1848)の両国橋夕涼図(文政〜天保:19世紀前半)などと比べると、その構図や内容が見た目ではそう変わらないように見えるが、よく見ると、「東京」という文字が見え、明治に入ったことがわかる。

2.落合芳幾「俳優写真鏡・二木弾正=尾上菊五郎」は、写真を意識した陰影表現になっている。
3.月岡芳年(天保10年〜明治25年=1839〜1892)=最後の浮世絵師といわれる=

「郵便東京日々新聞第一号」は報道ものとして刷られたが、今日のようなリアルタイムのそれではなく、最近のショッキングな出来事を絵として視覚的に伝えるもので、人々の耳目を集めた。
「東京名勝高輪 蒸気車鉄道之全図」(明治4年=1871)は、当時の最先端の蒸気機関車や西洋人らを描き、西洋画の影響を受ける陰影や透視図表現がみられる。
「田舎源氏」(明治18年=1885):月岡は江戸時代からの伝統絵画を踏襲する優れた作品も残している。月岡はいろいろな絵を描く才能に恵まれ、様々な注文に応じて多彩な作品を残した。
「奥州安達がはらひとつ家の図(明治18年)」=血みどろ絵でも知られる芳年だが、この絵は血はなくとも、はち切れそうなお腹の妊婦と痩せ衰えた老婆の対比、恐ろしさと悲しさを含む表現・技術の高さを示している。
「芳流閣両雄動(明治18年)」:南総里見八犬伝の名場面を描いた作品で、江戸時代の歌川国芳の同場面を描いた作品と比べても、構図の大胆さ、緊迫感と静寂さ、色合いの鮮やかさなど、傑出した才能を示す作品だ。
「風俗三十二相 けむそう 享和年間内室之風俗=明治21年(1888)」=芳年晩年の美人風俗画―優れた描写力を示す作品ー
「月百姿(明治18〜25年」月をモチーフにした100枚の中の「源氏夕顔巻」「むさしのの月」−「月百姿」は晩年の代表作で表現の巧みさが光る

4.小林清親(弘化4年〜大正4年=1847〜1914):幕臣として維新を迎え、明治になってから洋画を学び、「光線画」と称される風景画で好評を得るが、やがて画風を変え、風刺画、歴史絵、戦争画などを描いた。
「日本橋夜(明治14年=1881)」:明治9年から光線画をはじめ、錦絵にはない光と影の世界を描いた。ガス灯に人力車、馬車などの明治の世界がシルエットの濃淡で見事に表現され、独特の情緒を漂わせている。
「画布に猫(大判錦絵)」(明治12年)−清親自身の「鶏に蜻蛉」という濃彩の木版画を絵の中でキャンバスに油絵として描き、本物と間違えて猫が飛びかかるという写実表現への自負、こうした表現を錦絵で描かれたことに驚かされる。
「鉄砲打猟師」(明治13年)−銅版画のような表現、画題も斬新
「大久保利通公肖像」(明治11年)−大久保が暗殺された後に描かれた肖像で写真や銅版画のような写実的な表現
「高貴徳川継絡之写像」(大判錦絵3枚=明治20年)ー写真を意識した徳川15代の肖像画の錦絵ーーこんなものが売れたのだろうか?−−
「清親放痴 東京隅田川牛嶋」(明治14年)−清親のポンチ絵ー滑稽、ユーモラスなシーンの浮世絵



5.井上安治(元治元年〜明治22年=1864〜1889):師匠の清親の光線画を引き継ぐ画風だが、やや異なる個性的な風景画を残すも夭折。
「新吉原夜桜景」:窓の明かりと提灯の明かりで夜景をすっきりと描いた作品、人力車や桜の花びらへの照り返し、シルエットなどが見事に描かれている。

6.河鍋暁斎(きょうさい:天保2年〜明治22年=1831〜89):初めに歌川国芳に入門するもそこを去り、駿河台狩野派に学び、安政6年(1859)頃より狂斎を名乗り、錦絵を描きはじめ、明治三年、投獄を機に暁斎と改名し、万博、勧業博覧会などで活躍、駿河台狩野派を継ぐ。
「元禄日本錦 け 倉橋伝助武幸 や 岡嶋八十右衛門常樹」−火鉢をひっくり返して戦う図

7.三代歌川広重(天保13年〜明治27年=1842〜94):二代目の離縁後、三代目を継ぐ。横浜絵、開化絵、東京名所絵などで知られる。
「東京築地ホテル」−西洋人らが宿泊する洋風ホテルと洋装の人々、当時こうした洋館、西洋風建物も名所として錦絵の対象となった。

8.二代歌川国輝(天保元年〜明治7年=1830〜74)
:「第一区従京橋新橋迄煉瓦石造商家蕃盛貴賤藪澤盛景」−銀座の煉瓦街を描いた名所絵、蒸気機関車の煙も奥にたなびいているーこの煉瓦街も震災で壊滅したー

9.永島春暁(生没年不詳)
「東京両国橋 川開大花火之図(大判錦絵三枚)」

中央右を両国橋が斜めに画面を切り、奥に対岸、手前に出店と群集、花火という伝統的な図柄だが、洋装の人々や人力車、洋風の建物(電信局)、「牛鍋」の文字などが時代を表す。同じ図柄の江戸時代19世紀前半の歌川国虎の両国橋の花火図と比較してみるとよくわかる。

10.楊洲周延(ようしゅうちかのぶ=天保九年〜大正元年1838-1912)
当世風美人画や伝統的な美人画も描いた。
「浮世風俗当世振 看護婦」−赤十字のマークを付けた白衣の看護婦像ー明治38年製作のこの絵は、日露戦争に従軍した看護婦を描いたものらしい。戦争画も多く残した周延らしいテーマのようだ。

11.豊原国周(国周=天保6年〜明治33年=1835-1900)
羽子板形式の役者絵で独自の様式を確立、役者の大首絵で評判が高まった。明治の写楽とも評される。
「色香もどこやら にはかの大風(明治21年)」は、北斎などもよく描いたテーマのようだ。

「見立三勇志(大判錦絵三枚・明治11年)」は西南戦争における西郷(市川團十郎)らを描いたもの。テーブル座像と西洋絵具など、国周の特色が出ている作品。

「東海道四谷怪談 隠亡堀の場」(大判錦絵三枚=明治17年)−戸板に打ち付けられた小平とお岩が登場する場面、画面から下にはみ出したお岩の折り返しをめくると小平が現れるという、「戸板返し」の演出を表現している。

「五代目尾上菊五郎の小間物屋才次郎」(大判錦絵竪二枚綴り・明治20年)
大蛇に飲まれた才次郎が腹を裂いて生還する場面、タテ綴りの画面の上下でにらみ合う大蛇と才次郎、鮮血が衝撃的−血みどろ絵の一つとしても知られる。

2:大正・昭和の「浮世絵」ー新版画と創作版画
明治後期、洋画を始めた画家たちの間で、西洋の版画の影響もあって、画家が自分で彫り、自分で刷る創作版画運動が現れた。一方、絵の複製を目的とする絵師・彫師・摺師の分業体制で成り立つ伝統的な錦絵版画も、明治42年、渡邉木版画展を設立した渡邉庄三郎が版元となって、鏑木清方の門人や外国人らと提携して、近代的な浮世絵の創出を目論んだ。渡邉は輸出用木版画を手掛ける一方で、著名な浮世絵研究家の藤懸静也と協力して浮世絵研究会を主宰し、学術的な裏付けを元に、錦絵の複製版画を制作。欧米では本格的な浮世絵研究が始まり、ゴンクールによる「歌麿(1901)」、クルトの「写楽(1910)」などの研究所が相次いで刊行され、日本でも明治末から大正にかけて、浮世絵研究が始まった。渡邉は当初、錦絵の複製をしていたが、次第に新しい時代の木版画を創作するようになる。最初は来日中のフリッツ・カベラリの水彩画を元に制作し、大正4年には、渡邉の呼びかけに応じた橋口五葉が「浴後の女」を創作し、その後、鏑木清方門下の伊東深水らが続々と参加して、評価を得て、昭和の初めまで続く最盛期を迎える。

1.橋口五葉(明治14年〜大正10年=1881〜1921):旧薩摩藩藩士の三男で19歳で上京、橋本雅邦に学び、黒田清輝の薦めで東京美術学校に進み、挿絵画家として出発、三越の懸賞ポスターで一等入選、人気を博す。渡邉版画展より、「浴場の女」を発表、それ以降は錦絵の研究を行い、東海道53次複製、美人画、風景画の新作を始めたが、病気で急逝した。
「櫛梳る女」(大正9年=1920):「化粧の女」とともに五葉の美人画を代表する作品、繊細な髪の毛の表現は彫師の腕の見せ所、清楚な女性の表情と、生き生きとした髪の毛の対比が見どころ。

2.伊東深水(明治31年〜昭和47年=1898〜1972):深川生まれ、活版工、石版画工として働きながら絵を学び、鏑木清方に入門、渡邉版画店などから美人画、風景画を多数出版し、「新版画」の中心的存在となる。
「対鏡(たいきょう)」(大正5年=1916):深水の美人画に着目した渡邉庄三郎プロデューサーの新版画第一弾、赤い長じゅばんの色を何度も研究し、塗り重ねて出した色らしい。

3.山村耕花(明治19年〜昭和17年=1886〜1942): 品川生まれ、尾形月耕に師事、東京美術学校専科卒業後、文展入選、役者絵を手掛け、舞台美術、歴史画,風俗画など幅広く活躍した。
「七代目松本幸四郎の関守関兵衛」ー 近代の写楽を目指した耕花の面目躍如の作品

4.川瀬巴水(明治16年〜昭和32年=1883-1957):東京芝の生まれ、16歳で日本画を学び始め、のちに洋画も学び、伊東深水の新版画を見て、風景版画を始める。渡邉版画展などから」広重をほうふつさせる風景版画を出版し、活躍。
なかでも「日本橋(夜明け)」は近代版画の中で日本橋を描いた名作と評価されている。
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