![]() |
鴨川河畔から眺められる東山の山並みは、北は比叡山から奥比叡の山までで、花折峠より向こうの比良の山々はあくまでも近江の国の山であり、旅情を感じさせる山であった。ただ、京都で大学生活を送った割には、比良の山とは縁がなく、大学1年の時に4度ほど登っただけで終わってしまった。
初めて、比良の山に足を踏み入れたのは、大学に入って間もなくの5月、知り合ったばかりの理学部の学生二人と出かけた。当時大学紛争で授業もなかったのに律義に5月3日から一泊で行った。今から思うと少し不思議な気がするが、そのうちの一人が自前のテントを持っていたのだった。
件の地図によれば、京阪三条から花折峠を越えて朽木谷の葛川梅ノ木まで午前、午後1便のバスがあった。午前の便に乗れば、8時半には花折峠に着く。第1日目は、峠から権現山、ホッケ山、蓬莱山、打見山、木戸峠、比良山、鳥谷山と歩いて、南比良峠近くの奥山山荘あたりで宿営した。次の日は、金尿峠、八雲ケ原、武奈ヶ岳、ヤクモ小屋、北比良ロッジ、シャカ岳、ヤケオ山、寒風峠、鵜川越と歩いて、琵琶湖側の鵜川に下りている。
両日とも天気に恵まれたらしく、久しぶりの山行にバテ気味と言いながら、比良山系の主稜線を南から北にほぼ縦走してしまったのだから、若いということは素晴らしいことだ。
この時、どうやって京都まで帰ったか記憶にない。件の地図には琵琶湖畔を「江若鉄道」が走っており、資料として時刻表が掲載されている。江若鉄道は、ネーミング通り若狭と近江を結ぶ鉄道として計画されたものだが、出来たのは浜大津から近江今津までだった。調べてみると、この鉄道は、国鉄が湖西線が着工されたことに伴い、この年の11月1日限りで営業を終えている。そうであるならば、帰路は江若鉄道に乗って浜大津に出て、京阪電車で京都に帰ったに違いないと、乗り鉄のロマンがむくむくと胸中に湧いてきた。
この時の山ノートには、「比良は今後沢を中心としてバリエーションルートをやってみたい」と記されているが、結局沢登りなど一度もせずに終わってしまった。
次に、出かけたのは、所属したクラブで年末から正月にかけて新潟の妙高で山スキーの合宿をすることに決まった時だった。確か、山慣れない参加者もいたので、12月初旬にトレーニングがてら一泊して武奈ヶ岳に登った。ただ、どのコースをたどったか、記録はもとより記憶もない。唯一思い出せるのは、安曇川沿いの坊村に下りて一日2便のバスで帰ったこととバスを待っている間にしでかした学生どものやんちゃぶりだけだ。
バス停の近くに、葉がすっかり落ちた枝に紅い柿の実がたくさん残っている柿の巨木があった。皆だれも腹を空かせていたので、誰が言い出したともなく柿を落とそうと空に向かって石を投げつけた。偶然落ちてくる柿を競って拾い、急いで口に運ぶと、なんと猿も食わない渋柿だった。こういうあまり褒められたことではない出来事は、いつまでも覚えているものだ。
さて、妙高のスキー合宿で、山スキーの味をしめた我々は、年が明けると学年末試験の準備などなんのその、比良の山に意気揚々とスキーの練習に出かけたのだった。
一度目は、2月1日、2日と武奈ヶ岳に行った。もちろん、登山口から歩いて登ったが、多くの時間は北比良スキー場のゲレンデで過ごしたものだった。このスキー場は、その後、2004年3月に43年間の歴史の幕を閉じている。ただ、面白いことに、地図に載っている比良のスキー場についての解説記事によると、スキー場関係者は冬季国体誘致の折にはゲレンデを拡張してここを会場にしたいと夢を膨らませているとある。
二度目は、一週間後の7日、8日と出かけた。この時も、打見山の蓬莱スキー場でスキー技術の向上を図ることを目的にしていたが、次の日は蓬莱山から権現山へスキーツアーをして花折峠に下りた。ただ、今思い起こせるのは、花折峠への下りは滑り降りるというよりは、腐れ雪の切り株の残る斜面をスキーをつけたまま何とか下ったことだけだ。
結局、比良の山の山スキーは快適でないことを思い知らされた訳だが、山スキー熱は冷めることはなかったようで、翌月には雪深い氷ノ山にスキー山行に出かけたのだった。
(参考)
「初めての山スキー 妙高・笹ヶ峰」2018年08月04日付ヤマレコ日記
https://www.yamareco.com/modules/diary/356744-detail-170005
「氷ノ山スキー山行の思い出」2021年04月21日付ヤマレコ日記
https://www.yamareco.com/modules/diary/356744-detail-237307
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する