谷川岳ザイル銃撃事件は、前代未聞の遭難事故として山岳界全体がマスコミのバッシングに曝されました。
現場が難度の高い一ノ倉沢の中でも、最も難しい衝立岩正面壁中央であったことから、無謀登山の結末との論調が主流でした。
当時このルートは初登攀されて間がなく、登攀経験者は5パーティ、10名に満たないと云われていました。
同じ頃に私達の会でも熱心に偵察を行い、ルートの情報を集めておりました。
遭難者2名の年齢が若かったことから、岩登りの経験が1,2年しかない筈なので技量不足、経験不足とマスコミに誤認されたのです。
私の認識は少し異なります。
岩登りの技量は適性と体力があり良いリーダーに指導されれば、一年の登攀経験でベテランを凌ぐこともあります。
困難に遭遇したときの対処法の選択と、ルートを見る目に関しては、経験が勝りますが、彼らのそれまでの登攀歴を見る限り経験不足とは言い切れません。
谷川岳では一ノ倉沢の難しいルートを選ぶように登っていますし、北アでは前穂高端の屏風岩や明神岳(穂高)でも難しいルートばかりを登っています。
彼らの技量も経験も充分であり、登攀者として油の乗り切っていた頃ではなかったかと思っています。
ハード登攀は困難を乗り越えて行う登攀ですから、困難を理由に否定されてしまえばアルピニズムは成り立ちません。
困難に立ち向かえば失敗もあります。
失敗が不幸にして致命的な遭難になってしまったのだと思っています。
ザイルを銃撃するといった遺体の収容方法についても、日本の登山界の登攀技術と山岳救助技術のレベルの低さが指摘されました。
ザイルの銃撃という手段は、ご遺族のたっての希望で所属山岳会と県警が決断したのです。
いろいろな収容方法が提案されましたが、ご遺族の真意は二重遭難で犠牲者が出ることが万に一つもあってはならないとのお気持ちでした。
確か、24日に自衛隊が配置につき重機関銃と小銃でザイルの銃撃を開始しましたが、岩壁に着弾の砂煙が上がるばかりでザイルは切れません。
記憶ではその日は1000発の機銃弾が使われてもザイルを切るに至りませんでした。
自衛隊は作戦を変更し、重機関銃を撤収し照準器付きの軍用狙撃銃で正確にザイルに命中させることにしました。
そしてザイルと岩の接触点を狙い数十発でザイルの切断に成功します。
2人が落下するのを見るのは本当に辛く、立ち会った山男たちは皆涙を流していました。
二人の惨い最期を悼む涙でしたが、その涙には自分達の手で山仲間を降ろせなかった悔しさも、少なからず含まれていたと思うのです。
ハード登攀に必要な技量と体力は若者の持つ能力です。
登攀能力は中年になれば知らず知らずのうちに衰えてきます。
だが遭難した若い彼らには充分な技量と体力があったと信じています。(つづく)ainakaren
*続くhttp://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-14590
おはようございます。
更新されているのに気づかず、コメントが遅くなりました。
ザイル銃撃による遺体収容の事ははっきりと覚えております。
私が小学校の高学年の頃の出来事で、勿論まだ山歩きなどしていませんでしたが、この出来事のことと映画「氷壁」を親に連れられて観に行った事がどういうわけか今でもはっきりと記憶に残っているのです。
潜在的な意識で「山」に興味を持っていたのでしょうか・・・・?
それにしても、ザイル銃撃に至った経緯、当時小学生だった私には理解出来る由もありませんでしたが・・・苦悩の決断だったのですね。
kenpapaさん・コメント深謝です。
二人の遺体が落下する現場に居合わせた者として、そのことを書くのは辛いことでした。
当時のマスコミの報道が遭難者と山岳界に対する認識のないまま、非難一色だったので、どうしてもこれだけは書いておきたかったのです。
私がハード登攀をやめる決心をしたのは、この遭難事件を含め短期間の僅か9ヶ月間のうちに発生した3件の死亡事故とそのご遺族にお会いしたことが動機になりました。
4名が亡くなりましたが、その一人が私のザイル・パートナーなのです。
もうこのピッケルの日記の中で遭難事故を書くのは止めにして、ピッケルの話に戻りたいと思います。
近々続きを書き、アップしたいと思います。相仲 廉
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