私にとって何故重要なのかと云えば、1953年の秋、鍾乳洞見物にたまたま友人と訪れた奥多摩渓谷の美しさに魂を奪われ、それがきっかけで登山を始めたからです。
だからこそ私には記念すべき年なのです。
そしてその事が生涯の趣味として私の人格形成に作用し続け、生活環境や友人、仲間達にいたる社会形成にも作用したに違いないと思います。
意識はしませんでしたが、知らず知らずのうちには仕事にさえ影響したと思っています。
今振り返ってみると人生とは誠に不思議なものです。
そして特に不思議なのは、山登りの仲間達の姿の印象だけが格段に強く、走馬灯のようにはっきりと思い出すことができることです。
仲間達を写した古いアルバムに、そのときの奥多摩での写真がありました。
それを私の最初の山行記録として登録しましたら、写真と感想文つきの記録では現時点でヤマレコ最古のものとなりました。
世界、特に山岳界にとっても1953年は重要な年でした。
世界最高峰の未踏のエヴェレストの頂にヒラリーとテンジンが到達、初登頂に成功したのです。
1953年5月29日のことでした。
当時マスコミがセンセーショナルに報じましたが、私が山に目覚める数ヶ月前の事で、その時はあまり関心が無かったのです。
後に、奥多摩に行くのが数ヶ月早ければよかったと残念に思いました。
まぁ人生には色々なことがありますね。
私としてはまずまずの楽しい人生だったと思っています。 相中 廉 ainakaren
1953年は私が3歳になる年ですね。その頃の記憶はあまりありませんが、猩紅熱にかかって医者の薬を飲むとき、親が当時高価だったバナナに錠剤を埋め込んで、飲ませようとしましたが、変なものが入っていると、薬は吐き出してしまったそうです。なんとなく覚えています。そんな、私も還暦を越えてしまいました。父親はまだ健在です。
1953年と云えば昭和28年ですか今チョット調べたましたら、日本ではマナスル第一次遠征隊の時ですか、
私自身は現在の場所に住み着いた年ですよ、小学校4年の時でした、
wakaさん、こんばんは。
バナナはこの頃まで高かったですね。
乾燥バナナもありましたね。
でも薬も抗生薬は高価でしたよ。
ペニシリンからクロロマイセチンの時代です。
結核などには、ストレプトマイシンの全盛時代でした。
親御さんが高価な薬をなんとか吞んでもらおうと、ご苦労が目に見えるようです。ren
ainakaren様、PC復活おめでとうございます。
1953年、私の生まれる24年前です。
何か分かりませんが色々な意味で、
「ありがとうございます。」と言いたくなりました。
naiden46さん、こんばんは。
小学4年だと10歳くらいですね。
私は未成年でしたが、お酒も煙草も親や先生に隠れてやってましたね。
でも不良少年ではなかったと思います。
酒は今まで尾を引いてますが煙草は50歳ごろキッパリ止めました。
あの頃の日本の山岳界は、欧米にかなり遅れてましたね。
追いついたのは60年代で、それも大学山岳部が中心の日本山岳会より社会人山岳会中心の日本山岳協会でした。
第2次RCC結成から5,6年後でしょうか。ren
shumeiさん、こんばんは。
お若いですね。
若いということはそれだけで大変な財産です。
大切に使ってくださいね。
ご無事な山行をお祈りします。ren
マナスルは日本人が初登頂した山なんですよね。
9月は埼玉県岳連の登山隊が行きます。
ニュースにもでてました。
鍾乳洞というと以前日記で倉沢を書かれていましったけ?それは別ですか。勘違いかも・・・。
K_guminさん、こんばんは。
そのとうりです。
1956年に3度目の正直でマナスル初登頂に成功します。
倉沢と日原の鍾乳洞を見学しました。
1953年の事です。
山行記録に掲載しています。
あの時の数ヶ月前にエヴェレストが初登頂されていたのですね。
その年に山に目覚めたのは運命ですかねぇ。 ren
マナスル登頂記の本を私は持っていますよ、 昭和31年8月20日初版発行です、
発行所は毎日新聞社です、まだ山に行っている時に古本屋で見かけたので買いました、
話は違いますがサッカー引き分けでしたね、危ない場面がかなりあったのでヤバイと思いましたよ、
naiden46さん、会の本部事務所の本箱にありましたね。
私は持っていません。
引き分けならまぁよしとしましょうよ。ren
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