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フランソワーズ・サガンが1954年18歳で発表した処女作の小説である。
同名の映画が2008年にフランスで制作され、作品は日本で2009年に封切られた。
ここで物語のあらすじは語らないが、既に1957年に米英合作で初映画化され、その翌年には公開されており、お膝元のフランスでの映画化はサガンの自伝をメインテーマに据えたとは言え、やや二番煎じの感もある。
米英合作映画の出演俳優はジーン・セバーク、 デボラ・カー、 ディビット・ニーブンらであった。
古い米英合作映画はセピア色の暗いモノトーンで始る。
そして悲しみのうちに自らの過ぎ去りし日々を悔やみ、もの思いにふける女の姿を映し出す。
物語が回想シーンに入ると、一転して明るいカラー映像に変わる。
その明るい色彩の中で父と娘と父の愛人の交錯する愛憎物語が進行し、悲劇的結末を迎え回想シーンは終わる。
再びセピア色モノトーンの画面が女の現実の悲しみを映し出して映画は終わる。
回想シーンをモノクロで表現する映画技法は多いが、この作品はそれを逆転させることによって深い悲しみを際立たせていた。
この作品を観たのは登攀に熱中していた多感な青春時代であり、印象深く記憶に残っている。
女性の髪型に短髪のセシルカットが大流行するが、娘(セシル)役で主演のジーン・セバークの回想カラーシーンでの髪型が起源だった。
後に、シルビー・バルタンや ツイッギーも真似たが、セバークの直前の出演作が ジャンヌ・ダルク役で髪を切り、本作撮影時にはやっとこの長さだったと言う。
セピア色のモノクロシーンでの長髪は、たぶん鬘であったろう。
1950年代の古い山の紙焼写真を見ると、画面がセピア色の斑に変色しているものが多い。
それをデジカメで複写撮影すると、色斑がそのまま出てしまい汚くなる。
デジカメの編集機能のレタッチマイカラーでモノクロに加工すると、汚れや色斑が目立たなくなる。
古い紙焼写真はそのものがセピアっぽくなっているので、いっその事セピア色に加工すると仕上がりも綺麗になるし懐古的でもある。
『悲しみよ、こんにちは〜』とは逆に懐古シーンのセピア色だが、ヤマレコの懐古日記や古記録の黄ばんだ見苦しい写真を加工して差し替えたいと思っている。
山の記憶には悲しみもあり、遠い青春の想い出にセピア色はよく似合うとも思えるのだ。ainakaren
サガンのこの小説を読んだのは僕が20歳代でした。新潮社のこの小説は背表紙がピンク色に装丁されていて、それからサガンを数冊読んだように記憶しています。内容はまったく覚えていませんが、埃っぽい書店に立って少ない小遣いからどの本にしようかと迷ったあげくに買って来て、その足で一杯200円の珈琲でジャズ喫茶「フランセ」で閉店まで粘っていたのが懐かしく思い出されました。
ainakaren さま
古のほのぼのありがとうございます。
遠い昔はセピア色、、、かもしれませんが、思い出せば、振り返れば、つい昨日のように感じることも。
心の中で鮮明な映像が浮かび上がる瞬間が
キスリングやハンチング、首に手拭い(この方はタオル?)、そして3代目河童橋?に浴衣姿のヲジサン
今では考えられない光景でしょう。
1950年代、山屋は酒に煙草に汗臭さ、、、帆布のテントに木製ペグに、大きな鍋も、キスリングはまるで背負子のように、さまざま括り付けて担いだい豪快な時代でしたでしょう。
昨日のような気がします。
HITOIKIさん、こんばんは。
コメント深謝です。
サガン作品は今も人気が有りますね。
一時はセシールカットの髪型と共にブームを巻き起こしましたね。
当時はジャズ喫茶が沢山ありましたね。
常連だった横浜のビタースイートも鎌倉のIZAも数年前に閉店し、淋しくなりました。ren
77ms1ksbさん、こんばんは。
コメント深謝です。
写真は1950年代後半〜57年か58年頃の夏でしょうか。
キスリング、大なべ、尻当て、ハンチングかチロリアン、首に手ぬぐい、でしたね。
色あせた小さな写真ですがセピアに加工するとなかなかいいですね。
見てると懐かしいですねぇ。
夏は社員旅行の親父達が、浴衣でぶらぶらしてましたね。
本当に今は様変わりですね。ren
はじめまして!
いつも、楽しみに読ませていただいております。
セピア色の写真は、河童橋でしょうか?
温かみのある、写真ですね。
知り合いの80代後半になる素敵に年を重ねたおじ様から、大学の山岳部時代、ニワトリをつれて山に登り、食糧にしたという逸話を伺った事があります(^-^;/...
昔の山やさんは、豪快でしたね(/--)/
stefanoさん、こんにちは。
コメント深謝です。
写真は半世紀以上前の河童橋の袂です。
人の風体と荷姿は随分と違っていますが、風景は現在とあまり変わっていませんね。
当時の登山者は豪快と言うよりも、凡てに無頓着でした。
山中での衣食住環境の下界との乖離に対して強靭且つ無神経だったと言えます。
例えば歯磨き、洗顔、入浴、着替えを長期間全くしなかったり、ランチの調理をせず歩きながら食べたり、登攀の途中で日が暮れると、その場にぶら下がったままビバークしたり、厳冬期に同じ状況でオーバーズボンが脱げず、そのまま小キジを垂れ流し靴の中を水浸しにしたり、言い換えれば不衛生極まりない原始的登山をしていたと言うことです。
質問箱に「歯磨きをして口を濯いだ水をどのように処理すればいいのでしょうか」との問いが投稿されたのを見たとき、登山風俗と意識の変化(進化だと思います)に感慨無量でした。
当時、携帯電話やGPSは勿論のことマイカーで麓の登山口まで乗り付ける時代が来るなど夢想だにできませんでした。ren
・
*同時刻に撮影した写真がありましたので追加しました。
ainakaren様
主人と数十年前の山やさんて凄い!!!!
とainakarenさんのコメントを読んで盛り上がりました!
某山小屋で、[歯ブラシ、売っていますか?]と山小屋のご主人に聞いていた方がいました😰
stefanoさん、こんばんは。
山小屋に歯ブラシがあれば便利ですから、そうなれば、それはそれで登山文化の進化でしょうね。
因みに昔、山中で歯を磨くなど考えたこともありません。
最近の山小屋の食事は旅館と同じように豪華になりましたし、そこに使い捨ての歯ブラシと剃刀が出てくればもう旅館と同じです。
昔の山小屋の食事は酷かったし、当時の山男の食事の認識がエネルギー補給のガソリン給油と同じ様な考えでしたから美味い不味いは問題外でした。
自炊の場合の食材も限られていて、現代の様にレトルトやフリーズドライの美味しい食品がありませんから、山中では不味いものしか食えないと最初から思ってました。
山中で調理や食事を楽しむ文化もありませんでしたから、食事当番が嫌々作っていたのです。
昼飯は調理をせず、歩きながらの行動食でした。
登山用のウエアは保温性の無い防風衣だけしかありませんから、下に日常に着る下着や上着、セーターなどを着用し、寒さも暑さも汗濡れも辛いものでした。
当時、山中での衣、食、住からクライミングやトレイルランまで、目的である登山の手段に過ぎなかったのです。
その手段のどれか一つを取り立てて楽しもうと言う考えもなく、そうした文化も未熟でした。
野外キャンプ、野外調理、山岳ファッション、フリークライミング、ボルタリング、トレイルランニングなどの登山の手段に過ぎなかった行動が、一つ一つ目的として楽しみの対象になってきたのは1970年代後半からでした。
技術や野外環境の整備などで、それらの手段が快適なものに進化した事情もありますが、アメリカン・アルピニズムの流行も影響したと思われます。
登山口にマイカーで乗り付けるのも、ロープウエーに乗るのも登山の進化です。
昔のような今思えば苦行のような登山を、わざわざすることはありません。
GPSも携帯電話も、持ったほうがいいのです。
昔の私達の登山は、たとえその手段が苦行のように辛いものであっても、それを補って尚余りある程、素晴らしい事に思えたのです。ainakaren
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