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60年も前の頃と言えば、私は山登りに夢中でした。
毎年夏になると、トリコニー付きのナーゲル山靴を履いて涸沢に設営した岳会の合宿キャンプから、訓練のゲレンデにしていた奥又白と滝谷に連日通いました。
二つの岩場には先輩リーダー達が熟知した難度の高いルートが何本もあり、後輩と新人達の上級技量訓練に適していたのです。
奥又白へのアプローチには前穂北尾根5・6のコルや3・4のコル、滝谷に向かう時には往路に北穂東稜を使いました。
現在、北穂東稜と言えばゴジラの背と呼ばれる岩稜が有名です。
当時、ゴジラも生誕間もない頃で衆知されておらず、岩稜は未だゴジラの背とは呼ばれていませんでした。
1970年代のガイドブックにはゴジラの背との記載がありますので、登攀引退後の1960年代末頃にはゴジラの背の呼称が定着したのでしょう。
重太郎新道の紀美子平の呼称定着も同じ頃か、もう少し早い頃なのでしょうか。
名付けの経緯は詳しく知りませんが、ゴジラの背とは当にピッタリの名称で感心してしまったものでした。
最初に誰がそう呼んだのか、今でも大変興味があります。
当時、長野県警の山岳チームがこのゴジラの背付近を救助訓練のゲレンデに使っていました。
固定ザイルを張り怪我人の運搬等の訓練をしていましたが、我々が通り掛ると必ず声を掛けてきました。
切り立った鋭い岩稜の通過に、訓練用に彼らが張った固定ザイルで安全を確保するように要請するのです。
万が一、目の前で墜落されては警察官として立場が無いとの事でした。
我々は各人がフリーソロで登っていますので腰縄(今で言うハーネス紛いの腰巻ザイル)を未だ装着していません。
要請に従いザックから腰縄とカラビナを取り出して装着しますが、面倒がってズボンの皮ベルトにカラビナを付けるだけの横着者も居りました。
固定ザイルの使用は10数メーター程の鋭い岩稜の通過ですが、一番高度感があって見晴らしの好い、しかも悪場のない気持ちの良い場所です。
お礼を云うと、先方からも協力の礼が返ってきます。
面倒がって協力に応じない人も多いとの事で、警察官でも強制力を持たないので大変との事でした。
ゴジラ生誕60周年に因み、大昔も60年前頃の北穂東稜を懐かしく思い出しました。
一方、トリコニーは岩場の名称としてポピュラーなのですが、その実、語源を御存知ないまま呼んでいる人も多いようです。
ナーゲル山靴のソールの周囲に付いているギザ歯状の金具がトリコニーです。
奥穂南稜のトリコニーが有名ですが、60年も前には既に各地の岩場が同名で呼ばれていました。
ナーゲル山靴が一般的だった時代、そのギザギザ形状に似た稜線の岩場が、そう呼ばれるようになったのでしょう。
既にナーゲル山靴そのものが死語になって久しいので、将来トリコニーの呼び名も次第に消滅するのかも知れません。
合宿キャンプからゲレンデへのアプローチに、未だ命名の無い岩稜名ゴジラの背を、将来消滅するかも知れない岩稜名トリコニー付きのナーゲル山靴で踏みしめた、その移り変わりと時代の錯誤感に面白さがあります。
当時、奥又白にも滝谷にも偵察と称して横目で眺めるだけの未登ルートが沢山有り、正式なルート名も確定していませんでした。
だが1960年代末までに激化した岳部・岳会の初登攀競争により登り尽くされて、ルート名が確定します。
既に登攀をしない私は、そのルート名に関心がありませんでした。
岳会を去っていた私には、係わりのない遠い現実に過ぎなかったのです。
今でも時々、懐かしい夢を見ることがあります。
それは、相棒が差し出すスキットルのブランデーを口に含みながら、無名だったゴジラの背から見渡す山々の大展望なのです。ainakaren
*写真はトリコニーの付いたナーゲル山靴。
先端部の数個が欠落した老朽靴で、昭和34年4月の谷川岳東尾根登攀中に破損し廃棄。
こんばんは。
ナーゲル靴には縁なく育った世代です。
錨靴で岩稜歩いて、滑らなかったんですか?
若年の頃にうっすらと記憶にあるんですが、
その昔のキャラバンシューズには靴底に金具が付いていました。
あれがトリコニーの#6だか#7だかだったと、数年前に聞きました。
青年期の春に奥穂南陵を登った時には「古い時代の山靴の錨の形」とだけ机上学習しましたが、
3本が屹立したトリコニーの姿と、記憶の中のキャラバンシューズが一体になり、ようやく自分の腹の中に収まった感じがしました。
「ゴジラの背」や「トリコニー」の名称消滅は杞憂だと思いますが、いつか「意味不明の呼称」になっちゃうのかもしれませんね。
gankoyaさん、こんばんは。
コメント深謝です。
ナーゲル山靴は乾いた岩の上でも、とても滑りました。
ビブラムのようにフリクションを使う登りは全く出来ません。
ステップに立って全体重を足に集中し、手でホールド支点を掴み、幅1センチのステップにトリコニーの一つが掛かる事で登りを可能にするのです。
夏のアルプスではナーゲルで充分登れましたが、逆層でホールドが細かくスタンスのない一ノ倉では無力で、草鞋の独壇場でした。
冬場は岩場もアイゼンですから、滑り易さに限れば差は有りません。
キャラバンに付いていた金具はトリコニーの名残りですが、折角のゴム底が岩の上では金具で却って滑りやすく、次第に廃止されてゆきました。
消える寸前まで残っていたのが、土踏まずの金具でした。
岩場の呼び名だけでも、消えずに『トリコニー』として残って欲しいですね。
せめて皆さんに、語源をお伝えしたいと思っています。ainakaren
ainakaren さま
まいどです。
トリコニ―、、、
私はgankoyaさんとほぼ同じ時代のようですが、あの紺のキャラバンシューズはなんといってもある意味強い味方でした。
縦走はそれで十分おつりが
色々な型が出そろった記憶です
金具付ので夜岩場歩いて、火花をよく飛ばしたものです。
あっそうそう
赤のキャラバンシューズも記憶してますよ
77ms1ksbさん、こんばんは。
コメント深謝です。
キャラバン履く人、多かったですね。
1950年代初頭には運動靴やバスケ靴しかなく私は最初にバスケで登り泥んこに滑り苦労したので、キャラバンが出たときソールを見て、良さは直ぐ判りました。
バスケから直ぐにナーゲルに交代でしたが、当時キャラバンがあれば直ぐに買っていたでしょう。
同じルートを登ったり下りたりヘトヘトの訓練を終わっての夕闇のキャンプまでの道、疲れて足も上らずに、トリコニーを岩角にぶつけながら帰りましたね。
火花で足元がポッと明るくなる〜、もうキャンプも近いし何か心温まるものがあって、今、想い出すと懐かしいですね。
相仲 廉
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