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その連想や妄想がそもそも誤解なのである。
確かにそんな題名の映画が有ったし、観た記憶もあるがストーリーは忘れてしまった。
唯一記憶しているのは、女子高の制服を着た少女が自動小銃を構えて直立している映画館の立て看板だけである。
題名のセーラー服は本来、海軍水兵の軍服のことだし、少女の構えているのは機関銃でもない。
セーラー服は水兵の正装軍服であり戦闘服ではないが、元々女の着る服ではなかった。
軍艦に女を乗せることなど無かった昔から世界中の海軍水兵の軍服なのだ。
鍔の無い帽子、背に大きな垂れ襟の上着、ラッパと呼ばれるパンタロンがその特徴である。
街に繰り出す水兵たちが格好良く、民間に好まれてそのファッションがまず男児用の子供服に採用され、続いて婦人服、女子高の制服に波及した時点で初めてスカートが採用された。
昔から男のスカートと女の褌は似合わないと言われるように、女兵士の居なかった当時の軍服にスカートなど無かったのである。
ところが最近の婦人服には女子高制服風セーラー服という、まるでコスプレ用途のようなものまで販売されているのだ。
セーラー服からコスプレ・キャバクラを連想するのが、そもそも誤解なのだ。
そして映画の看板で少女が構えているのは自動小銃であって機関銃ではない。
機関銃には本体に弾倉が無く、弾は弾帯で供給し据付用の三脚式台座を持つ。
故に例え軽機関銃であっても、一人で操作するのは困難である。
重機関銃となれば尚更のことである。
私には軍歴がないし狩猟の趣味もないから銃器には詳しくない。
機関銃や小銃などの認識は戦争映画やスパイ・アクション映画だけのことだ。
だが一度だけ半世紀以上も前に機関銃、小銃、そして狙撃銃の壮絶な実弾射撃を目撃した。
その事件は今も山に登る人達に噂として語られているが、その内容には誤解が多い。
始めに軍用小銃で大勢がザイルの切断を試みたが果たせず、終に機関銃が出動して成功したとの噂は誤解である。
始めに機関銃2基、ライフル銃とカービン銃10丁で千数百発の射撃が成功せず、後に方針変更し狙撃銃に交代して成功したのである。
だが、誤解には肯ける理由がある。
それは使用された狙撃銃の形態である。
狙撃銃と云えばアクション映画に出てくるような軍用小銃や狩猟用ライフル銃にスコープを装着したものを想像するが、そのとき使用された狙撃銃はそんな生易しい代物ではなかった。
三脚台座の付いた大きな代物で、銃身が長く機関銃にそっくりな形状をしていた。
その違いはスコープが付いて弾が一発づつ発射されることだけであり、形態は素人目には機関銃に見えたに違いない。
軍用の狙撃銃とは、こんなにも凄い代物なのかと驚いた記憶がある。
射撃が終り、立ち入り制限が解除されてから銃器を見た野次馬は、これを機関銃と誤解したかもしれない。
〜が、重大な誤解はそれ以外にある。
経験不足の登山者の、無謀登山の結末との誤解である。
これには当時の不穏な社会状況にあって、報道界そのものの誤解でもあった。
日本中の登山者も山岳団体も叩きに叩かれ、悔しい思いをした。
私は決して彼らが経験不足とは思わないし、無謀登山とも思わない。
それでも遭難する危険は誰にでもあるのだ。
著名な登山家が、万全の準備で臨んでも遭難はある。
今も語られるザイル銃撃事件の噂は、誤解だらけなのである。
セーラ服と機関銃の誤解は、娯楽映画の話である。
他愛の無い噂話に誤解があっても面白可笑しいだけだが、岳人達の青春を賭した登攀を、単に無謀と誤解する噂は悲しい。ainakaren
ainakarenさんから、いつかはこの話題出るだろうと思っていましたよ、この事件はまだ私が山に入る前の事ですが、
本などで内容は知っていましたし、この岩壁の初登攀から1年しか経っていないとは言え、
当時は皆んな10代半ばで本格的な登山を初めていましたから、20才を出たばかりは一番伸び盛りの時期です、
決してビギナーの事故ではなく、あくまでも突然の豪雨がスリップを呼んだ事ですが、マスコミの餌食になってしまいましたね、
たしか彼らはこの為に一ノ倉や穂高で相当な訓練をしていたと記録に書かれています、
この事件で本当は一番困ったのは新聞記者の早呑込みで新聞の朝刊の紙面に「自衛隊出動か」という記事が報道されてしまった、
当の自衛隊だったと思いますよ、本当に要請された場合には失敗は絶対に許されないからです、
おそらくもし失敗していたら司令官は切腹していたかも知れない程の勇気ある決断でした、
もしかしたらainakarenさんは当時は現場に居たんですか、
>岳人の青春を賭した登攀を単に無謀と誤解する噂は悲しい 私も思いは同じです、
naiden46さん、こんばんは。
遭難の後、収容困難との連絡で現場に入りました。
だが、どの会の誰もが何もできませんでした。
当時は社会が騒乱していて皆が気が立っており、山岳遭難も最悪の状況が続いていたのです。
当時の社会情勢に触れた日記です。ainakaren
*「真夜中のJAZZから真昼の星へ」
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-13140
ainakaren さま
今宵も飲んで帰ってヤマレコを、そしたらなんかのんべい大先輩の「うん?」のタイトル。
思わずクリック
谷川土合の碑には数限りない若者(谷川だけではないと思いますが)の名前が。
日頃血の出るようなどんな鍛錬を重ねて挑んでいたのか。
>ハーケンが打たれて唄う音
乾いて悲しいドレミファソラシド
大学山岳部や社会人山岳部が競ってルートを開拓していた日本山岳会の創成期から充実期でしょうか。。。
時代も背景も今は変わり、、、。
でも、若くしてご子息(ご令嬢も)を亡くされた親御さん(ご兄弟も)には言葉をためらいます。
これは今も変わらないのではないかと感じてしまいます。
でも、山好きだからやめません
・・・だから、、続けるには、、そなえよつねに、体力向上だと
少し
気づきとなるレコありがとうございます。
のんべい芋
77ms1ksbさん、お早うございます。
そうですね。
事故当時発足したばかりの岳連でしたが社会人山岳会をまとめ4〜5年の内に大学系の日岳より影響力を持つに至ります。
その後、既に組織されていた岳連系の同人組織、第2次RCCの大活躍で4〜5年の内に国内の新ルートは全て開発され尽くします。
私が、岩登りを引退してから5〜6年ほどの後でした。
そして岳連系山岳会の海外遠征が盛んになります。
第2次RCCの活動は最盛期を迎えます。ainakaren
*「第2次RCCの時代」
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-15213
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