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日記
久ヶ原式土器は弥生時代後期の南関東の美しい土器だ。そんな久我原式土器がどのように生まれたのか、そこに住む人々はどんな暮らしをして何を食べて生きていたのか?南関東の弥生後期の大集落のことを知ろうと大田区立郷土博物館まででかけた。今日は久しぶりにMTBで大森まで走った。大田区立博物館に行く前に、明大前で用事を足し、井の頭街道から環七に出て大森までひた走る。大森駅手前で環七を左折し、大森貝塚公園に向かう。ここには大森貝塚発見者で近代日本考古学の生みの親であるモースの銅像と昭和4年に建てられた大森貝塚の石碑を見る。それから大田区立郷土博物館まで戻り、展示を見学し講演を聴講。器形や文様の美しい久ヶ原式土器がいかにして生まれたのかーー文様の分析や集落の性格、周辺の集落との交流などから推理していく。多摩川や呑川の近くの比高差10mある丘陵の上に広い平坦地が広がる独特の地形上に200年館に千〜2千軒の竪穴住居が存在していた。遺物や土器圧痕を調べるとコメしか出てこず、炭化米も出ている。カロリーの半分以上をコメに依存していたという安藤氏の分析だ。陸稲の場合連作ができないという。今時代連作が聞くのは水稲だけという認識だ。交通の要所で鉄器など必要な物資を調達するために人々が集まって大集落ができ、また古墳時代に強いリーダーの下、大集落の必要が無くなり集落は分解するというのが安藤氏のストーリーだった。また安藤氏は近年はキャンパスにある戦争遺跡の研究に時間を費やし、その経験から歴史というものの多様性ー歴史的事実は一つではなく、研究者により、人により歴史の見方は異なってくる。歴史や考古学を考える上ではパブリック殿コミュニケーションが大切だと考える安藤氏であった。この見方はなかなか興味深かった。
大森貝塚公園+大田区立郷土博物館「久ヶ原遺跡と久ヶ原式土器」展示と講演会
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