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写真2.遺跡から印旛沼方面を眺める
写真3.シンポジウム会場の遺跡発掘状況の復元展示
弥生の再葬墓で知られる岩名天神山遺跡発掘から50年以上が立ち、考古学史上では有名でも、市の史跡指定が現状で、その重要性を再評価して、県、国と指定を格上げさせようという意図のもとに佐倉市の薄いでシンポジウムが開催された。早朝、自宅を出発し、シンポジウム開始前に京成佐倉駅で下車し、岩名天神前遺跡に向かう。遺跡には碑が立っているだけで削平されているが、それでもどんな場所に立っているのか、地形やそこからの景観だけでも眺めたい――そんな思いで出かけた。京成佐倉駅北口から、印旛沼方面に向かって坂を上る。坂道から左に丘陵が見え、左の弓道に入ると、最初に仙元神社、道祖神があり、さらに進むと八幡神社がある、八幡神社に参拝して、さらに進むと岩名摩賀多神社が見えてきた、ここに宮前中央公園があり、その敷地内に岩名天神前遺跡があるようだ。遺跡に関する標柱が一本立っているだけ。それは初めから分かっている。遺跡のある公園から四方を眺めると、高台になっており、周囲の印旛沼、利根川に向かう低地や丘陵がよく見える。弥生中期の人々は素晴らしい景観の場所を墓地に選んでいるのだった。京成佐倉駅に戻り、隣の薄い駅に戻って、シンポジウム会場に向かう。碓氷駅で下車して会場の佐倉市民音楽ホールに向かうと、研究会メンバーら知った顔がちらほら。最初に、既に90歳を超えた大塚初重氏が登場し、岩名天神山遺跡を1963年、64年と発掘された当時の生き証人としての貴重な体験談を披歴された。当時位置からに住んでおられた戦後考古学の先導者、当時明治大学の考古学教室教授、杉原壮介氏が長官の千葉県版の佐倉で完形土器発見の記事を見て、当時助教授の大塚氏に、「おい、これは須和田式土器だよ!」と「須和田、須和田」と口走りながら、すぐ調査準備を始める。そこに大学院生の工楽善通氏(現大阪府狭山が池博物館館長)に、杉原氏が「おい、すぐに桜の発見者、北詰氏の所に行って土器や発見現場に行って状況を確かめてこい」と命令、その後、明治大学と北詰氏、土地所有者の間で合意が成立し、その年の12月から八繰る調査が始まった。よく年一月の第二次調査も行われ、土坑7期、完形に近い壺型土器17個(人骨の入った土器9個を含む)、瓶型土器3などを発見、出土土器は50~58?に達する大型の長頸壺型土器が多く、9個の土器から発見された人骨は灯台人類学教室の鈴木尚氏の鑑定の結果、男性2、女性1の骨で、前頭骨、脛、膝、尺骨などの一部だった。またそれらはごちゃまぜではなく、1つには壺には一人分の骨が分けて入れられていたという。こうした状況から、杉原氏は血縁関係の恋集団墓であったと推定。これまで、群馬県の岩櫃山の再葬墓その他、弥生時代のお墓と思われるような完形の壺などの土器と人骨などが一緒に出土する遺構が戦前から知られていたが、完形の壺から人骨が発見されるという明確な調査結果は初めてで、これにより、各地の同様の遺構が再葬墓(または弥生の壺再葬墓)であることが証明された。
通常、集落・住居址などから出土する土器の大半は破片で見つかり、完形はまれだ。完形の土器が出るということはお墓などの特別な場所であることを示す。−−弥生の再葬墓とはどのようなものか?縄文時代の再葬とはどのように違うのか?お墓は発見されても、集落や耕地は見つからないのはなぜか?再葬墓と弥生の農耕社会の成立とはどのような関係にあるのかーーなどなど様々な問題が出され、講演を行う春成秀爾、設楽博巳、石川日出志らの考古学のスターが自説を述べていく。「抜歯」の研究で著名な歴博名誉教授の春成秀爾が、全国各地の再葬墓や出土人骨、とりわけ「抜歯」研究などによる弥生再葬墓における集団の血縁や集団の特徴を分析する。次に東大の設楽氏がお墓を残した再葬墓の集団がどのような暮らしをしていたのか、最新のレプリカ法による土器圧痕研究などから推定される当時の生業の在り方を論究する。最後に石川氏が、縄文後晩期遺跡と再葬墓の立地の重なりから、縄文時代早期から続く再葬風習との関係、弥生前期の壺再葬墓群が縄文晩期末集落と連続する可能性、また壺再葬墓の終焉が新たな弥生農耕社会への入り口である可能性を多角的に論じた。西からは中部高地+北陸(八日市地方遺跡=小松式文化など)と関係の深い東海地方(濃尾平野)の方形周溝墓が北上、北からは北海道・東北から始まった土壙墓が南下し、関東地方も壺再葬墓が消滅し、方形周溝墓を持つ農耕社会へと変わっていくその過程を壺再葬墓は表現しているようだ。
東北北海道の土壙墓の南下が関東北部・東北南部に広がる壺再葬墓の終焉・農耕社会への転換というのは一見奇妙なようだが、設楽氏が強調したように、東北は関東に比べて遠賀川系土器や文化をいち早く取り入れ、日本海側や仙台平野では水田稲作を熱心に取り入れる社会変化を関東より早く達成、そうした西の東海地方の弥生文化と仙台平野などの弥生文化の南下にはさまれて、腰の重い関東の縄文晩期社会も新しい農耕文化を取り入れていったらしい。その場合、水田化しやすい傾斜のある低地や谷部以外の山間部ではアワ・キビなどの雑穀農耕を主として新しい複合的な生業を取り入れていったものと考えられそうだ。