ここ1-2年通っている古津八幡山弥生の丘で「邪馬台国時代の古津八幡山」展の第4弾として、「信濃川左岸の世界」展を見学、同日午後に、場所は離れているが、新潟市文化財センターで開かれる関連講演会も聴講した。マイカーで移動する市内の人には何でもなかろうが、県外からきてマイカーに乗らずに移動するのは困難な場所だった。今回の展示は昭和31年に長岡市立科学館の中村孝三郎氏らによって発掘された新潟市西区の六地山遺跡出土品の展示が中心で、弥生から古墳時代初めにかけての信濃川左岸地域の文化の盗聴、北陸や東北などとの交流の様子を出土品の研究からただるもの。弥生の丘の展示を見てから隣の新潟県埋蔵文化財センターに移動して、平成28年度の発掘企画展の展示解説を聞き、さらに新潟県北部の遺跡の現況について学芸員から話を聞いた。中々見学できるような遺跡はなさそうだ。奥三面周辺もすべてダム湖の下に沈んでいるようだし、青田遺跡も今は何もない状態らしい。なお、同遺跡から出た縄文晩期の移行と思われる栗の柱に関して、展示解説をされた荒川隆史氏らが、真脇など関連する北陸各地で出た環状木柱列の栗材を科研費を獲得して再調査したところ、年代がこれまでの報告では紀元前9〜10世紀だったのが紀元前5〜6世紀と500年も新しいことが分かった―特に年輪年代の読み込みが決定打になったというーこれには驚いた。昨年北陸の遺跡を訪ねた時はそんな話は出てこなかったのだが――研究結果は石川県考古学会誌に数年前に発表され、お概ねその数字は認められていという。
展示解説を聞いて、しばらく常設展示なども見てから、新潟市文化財センターにタクシーで移動ーーどの駅からも遠く、バスもほとんどなく車でしかたどり着かないような場所だった。講演は新潟県下の弥生時代研究で知られる笹澤正史氏で、弥生中期の北陸小松文化の伝播、中期後半の栗林式文化(信州)、後期における東北南部天王山系文化の南下などの文化の変容や交流の姿を土器や鉄器、装身具(玉作りなど)、高地性集落や墳墓形式などを通して論じていた。新潟平野や信濃川・阿賀野川流域も現在の地形からは想像つかない警官だったと思うが、少しだけその世界を覗き見た感じ。帰りもなかなかタクシーが来ず、何とか新潟駅に出て帰宅した。
写真1)新潟市文化財センターの企画展「律令時代の新潟平野」
写真2)県埋文センターの発掘展のなかの
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する