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2017年11月27日 14:44博物館、展示会、美術館など全体に公開

11月25日(土)瀬戸内海に生きた弥生古墳時代の人びと

今年最後の大阪ー弥生文化博物館と近つ飛鳥青銅器製作遺跡に関する展示と関連の講演会の二つの展示と講演会。ここ一二か月、東奈良遺跡のに出かけることが多かった。今回府立弥生文化博物館の企画展示「海に生きた人々」と関連講演を聞きに、大阪を訪ねた。8時半前に新大阪に到着したので、、午後の公園までは時間があるので、先に大阪府立歴史博物館に立ち寄る。常設展示で10階の難波津想定地出土の古代の土器展示を見ようと思ったが、それを見るだけで入館費600円は少し高いと思い、博物館前の広場にある法円坂大型建物群の復元や、館内ロビーの難波宮跡の発掘写真展示などを見て、館内の有料コーナーには入らず、博物館の少し先にある大阪城(徳川時代のもの)を散策して、弥生文化博物館のある信太山に移動した。
 弥生時代になるとある時期は人や物の移動の激しい時期があったり、地域色か強く主張される時期もあり、古墳時代に向かってどのような変化があったのかわからないことが多い。魏志倭人伝に倭国王が登場する時代では、海上交通は、いはばハイウェイと言ってもよいがこの海上交通の担い手たちはどのような人びとだったか興味は尽きない。
今回の講演は、愛媛県今治市生まれで愛媛大学の柴田昌児氏による海人海民論で氏の海に生きる人びとへの限りない情熱を感じとることができない。感動的だった。同氏の議論の根幹は海との接触による知識と技能で蓄積してきた海人とその周辺で暮らしてきた農耕社会の海への侵出の二つの勢力が合わさって海民社会が成立したと説く。その証拠として瀬戸内海の土器製塩、石錘や管状土錘Cを挙げた。さらに船と海路に関して、弥生時代に登場した準構造船への進化の過程を示す糸島市の潤地頭給遺跡出土の井戸枠転用の準構造船破片(写真3)にみられる実例を解説し、弥生時代後半にどのように船が進化していったかが示された。写真1の南の海へのあこがれでは、弥生時代、琉球諸島のゴホウラ・イモガイ・オオツタノハなどの美しい貝は装飾品として、九州を介して列島全域に流通した。写真は種子島の南種子町の広田遺跡で加工された貝符、貝小玉、腕輪などのアクセサリー類だ。
写真2では、泉大津市の大園遺跡出土の巨大な土錘で、古墳時代に入ってから引き網漁が大型化し、近隣の農民も漁に参加するようになり、農村社会の海への進出の証拠の一つとされた。そのほか、瀬戸内海や北陸の海岸付近の高地性集落や古墳が、沿岸航海のランドマークとして重要で、特に瀬戸内海は島が重なり、いたるところに早瀬や浅瀬、渦潮などの危険な潮流が潜み、海上で景観が変化する様子、船からこうした場所を見分ける材料を提供していることを会場から自ら撮影した動画で解説し、説得力があった。こうした海に生きる様々な生業を密漁民や農民、海の生活者が、やがて古代以降の水軍と呼ばれる海人集団へと発展していくことなど、海人への思いのあふれる情熱的な話に魅了された。企画展示「海に生きた人々」は12月3日まででご近所の方はぜひ見られることをお勧めしたい。このほかに人類最古の往復海上航海の証拠とされる神津島産黒曜石(沼津市)、三浦半島の縄文早期から後期の貝塚(稱名寺など)や伊勢・志摩などの漁具、大阪湾から始まった蛸壺、縄文時代とは異なる技術と考えられる(不明点は多いらしい)弥生中期紅葉以降の製塩土器の発祥地と考えられる備前瀬戸地域を中心とした弥生から古墳時代の製塩土器、海民の広域移動と交流を示す各地の漁具の比較など、先史時代から古代の意味に生きる人々の足跡を堪能することができるはずだ。
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