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のようで道もなさそうなのではにわ工場公園に向かう。途中それらしき古そうなカヤ府やぶき建物が見えたがうっか
り通過し坂上で場所を確認して引き返す。公園の中に入り復原登リ窰やマンガ入りの解説看板を見ながら見学施設に向かう。中には復元された登リ窰かあり解説やビデオが設置されていた。まだ時間にゆとりがあるのでビデオをざっと見てる。この新池の遺跡や生産された埴輪が置かれた周辺の古墳の話、なとが要領よくまとめられていた。数本のビデオを一通り見てから公園を出て今城塚に戻る。すぐに歴史館に入って講演会の整理券を受けとるべきだったが、うっかり先に古墳に向い古墳の墳丘や埴輪列の見える展望台で自作弁当を食べる。墳丘に向かう人の姿を確認して登れることがわかり、とりあえず歴史館に入って企画展チケットと講演会整理券をゲットしひとまず展示を見る。まず企画展だが、丹後半島は昨年の訪ねた。一度は下見をかねて橿原考古学研究所附属博物館友の会の団体ツアーで行き、本来は別の会で丹後ツアーの企画に携わっていたが、出発間際に母の容体が悪化し、参加できなかった。その後、丹後や大タニハについてもう少し深く知りたく思い、またこれまで行っていなかった今城塚やその周辺の遺跡も見たいと思い、でかけたのだった。丹後の遺跡に関しては弥生時代中期から古墳時代中期ころまで、一通りは学んだので、今回展示されている遺跡の多くはすでに知っているものではあった。企画展のテーマ「古代の日本海文化‐太邇波の古墳時代‐」の太邇波(大タニワまたはタニハ)とは、和銅6年(713年)に丹後・丹波・但馬に分割される以前の大きな地域の名称で、現在の久美浜から舞鶴、南は桑田郡や摂津の北側まで含まれる大きなクニだったらしい。ただし、ヤマト王権の力が大きくなり、地方制度がある程度整備される以前――つまり弥生終末期から古墳時代半ばごろまでは、各流域ごとにのちの国造になるような地域首長ごとの支配され、多くの国の集まりだったと思われる。
展示の最初は、日吉ヶ丘遺跡の方形貼石墓、扇谷遺跡の鉄斧、途中ヶ丘遺跡の陶塤(とうけん=土笛)などが最初に並んでいる。講演でも弥生時代に始まる丹後半島の各地に現れた手工業工房のある遺跡について話をしていた。朝鮮半島を通じた大陸との交流・交易のための玉類の生産基地だったのだろうか?弥生時代後期・終末期、丹後半島は確かに北部九州や出雲・吉備などと並ぶ
列島の先進地帯だった。この時期、奈良盆地は唐古鍵遺跡はあったものの、多くの近畿地方同様鉄器類はほとんど出土しない後進地域で、のちの都の地域はおそらく原野だったろう。丹後は弥生後期から終末期にかけて、台状墓や方形貼石墓などと呼ばれる特徴的な墓制が盛行するが、台状墓はおそらく山陰地方の墓制の影響があり、方形貼石墓は近畿地方の方形周溝墓の影響があるらしいが、出雲の四隅突出墓が一つも検出されていない。これは出雲と交易上の対抗関係があったためか?福井から石川、富山にかけて存在する四隅突出墓は昨年見学に行った。日吉ヶ丘の梁石墓に続いて、三坂神社墳墓群の3号簿や左坂墳墓群が取り上げられている。三坂神社3号墳はこの地域の最初の王墓といえるような隔絶した大きさを持ち、また左坂墳墓群はそれより小型の台状墓が丘陵上に延々と続いている。副葬品は鉄製武器や工具、ガラス玉の装身具など立派であり、王家につかえる人々の墓と考えられている。これらは竹野川流域、現在の与謝野市や京丹後市域の墳墓群だ。これらの中で、大きな鉄剣、鉄刀やガラス製品の一部は大陸からきた交易品、舶載品で、一部の小型の鉄器やガラス玉はこの地で加工されたものを含む。さらに青い大きなガラス釧路(国重要文化財)で著名な大風呂南1号墳やさらに巨大な赤坂今井墳墓の出土品が並ぶ。古墳時代への移行期の巨大王墓であり、大量の水銀朱をまいた木棺の中にガラスや碧玉の管玉などを規則正しく連ねた頭飾りや耳飾りや鉄製品が多数出土している。また土掘り具、耕起用の踏み鋤の葉の部分も出土し、西谷墳墓群や佐賀県の土生遺跡などで出土しているものと共通の朝鮮半島起源の農機具だ。このように大陸との交流を示す出土品が多いのがこの時期の丹後の遺跡の特徴。丹後半島には「丹波」という地名があり、これは和銅6年にタニハが分割される以前から続く地名で、その時代のタニハの中心地域と考えられるという。
弥生時代終末と古墳時代初頭の境界には、今林8号墳(南丹市園部)など、木棺墓や土器棺墓から庄内式併行期の土器や鉄製武器やガラス玉などが出土、古墳時代に入って太田南5号墳(京丹後市弥栄町)や広峯15号墳(福知山市)などの初期の古墳とみられる墳部群があり、太田南は赤坂今井の首長の後継者の墓とみられ、太田南5号墳からは青龍3年、広峯15号墳からは景初4年銘鏡が副葬されている。。高槻市では安満宮山(あまみややま)古墳が三島地区最古の古墳といわれ、太田茶臼山(5世紀)が最大。古墳時代に入り、丹後では白米山古墳が90mの最初の前方後円墳で、段地区や葺石を備えるも土器破砕供献や山陰型特殊器台型埴輪など、在地色の強い古墳だが、前期後半になると、蛭子山(145m=4世紀中葉)、網野銚子山(198m=同後葉)、神明山(200m=同)など、日本海エリア最大の前方後円墳が出現、三段築成や平面形などでヤマト王権との強いきずながみられる一方、丹後型円筒埴輪や在地石材を使った船形石棺などの在地色も残している。これらは日本海を航行する船から見えるランドマークとなるような巨大古墳で海上交通の支配を目指すヤマト王権とのつながりを示すものといわれる。その後は黒部銚子山古墳(105m=5世紀前半=中期)がそれらを継承する首長墳とみられるが、巨大古墳は継続せず、中心は西丹波などに移っていくが、何らかの理由で丹後を通じる日本海ルートの重要性が下がったのかもしれない。古墳時代中期に入り、丹後で巨大前方後円墳の築造が止まると、由良川中流域で、大型円墳の私市丸山古墳(直径71m)や西丹波では篠山地域に雲部車塚古墳(140m)が出現、盾形周濠、周堤帯、培塚、竪穴式石槨の中の長持形石棺を有し、多くの鉄製武具や馬具の副葬が始まる。これ以降は古墳時代後期の亀岡盆地に千歳車塚古墳(81m)が出現するが、これ以降大型古墳は丹後丹波地域には見られなくなる。