展示内容は、斐太意識のみならず、その前の旧石器時代から縄文、弥生時代の斐太遺跡群から古墳・古代と進み、さらに中世戦国の歴史の里内にある景虎終焉の地、鮫ヶ尾城址などの中世遺跡の出土品展示などのほか、民俗資料などもある。
旧石器に関しては鴻ノ巣遺跡(写真のみ)、縄文時代では大貝遺跡(中期)の出土の土器や土偶類、縄文石器や萩清水遺跡(早期〜中期=写真のみ)が並んでいる。
今回のメイン、弥生時代の斐太遺跡に関しては、土器の展示と集落や住居の構造の蛍雪写真や図がメイン、特に中期の北陸形と信州系の土器、弥生終末期から古墳時代初期にかけての北陸形土器(法仏式)などの外部との交流や移住の痕跡を提示している。終末期から古墳時代では北陸形の影響が圧倒的になるようだ。ここで言う北陸系とは、この地域一帯に大きな影響を与えた小松市を中心とする八日市地方遺跡を起源とする小松式土器〜法仏式土器などだ。
古墳時代に移行する直前には斐太集落の一つー矢代山B地区の向かい側の丘陵から弥生時代終末の墳丘墓が見つかっている。集落のリーダーの墓と考えられるそうだ。斐太の里にある観音平古墳群は3世紀から5世紀にかけての古墳群で、多くは磨なり初期の古墳、丘陵の上部では跡から前方後円墳が二基発見されているが、古いタイプらしい。
そもそも斐太と妙高市との金井は、1954年に斐太村そのほかの村と新井町が合併して新井市になり、平成の大合併でほかのいくつかの村も合併して新井市となったが、合併時の人口4万から現在は3万人に減少、人口減少が心配な小さな市だ。斐太遺跡が著名なので斐太歴史の里という名前で、関連するものの、上越市という近隣のもう一つの著名遺跡、吹上遺跡や隣の上越市の新幹線の上越妙高駅のすぐ目の前にある釜蓋遺跡を含めて、斐太遺跡群としている。お隣の上越市は、古代から国府のある直江津市と高田市が合併してできた巨大自治体上越市、面積で妙高市の二倍以上、人口では6倍以上で新潟で3番目の大きな自治体。
最後に日本一新幹線駅から近い遺跡という釜蓋遺跡を見る。釜蓋遺跡のみならず、付近にある上越市の吹上遺跡、斐太遺跡などを総括して斐太遺跡群としていることから国指定史跡を新潟県で一括して史跡公園として整備中なのかもしれない。釜蓋遺跡は現在もなお、遺跡範囲の確認などのために発掘作業を続けており、その成果を含めて展示されている。時期により信州系や北陸形の外来土器が多くあり、人の通行の多い新潟独特の土器移動を示す展示ー信州系の赤い土器、北陸形の白い土器が吹上遺跡や釜蓋遺跡ごとに展示されている。このあたりは北陸と信州の交通路の要所で交差点のような場所らしい。また斐太遺跡は高地性集落だが、吹上や釜蓋は低地で、水田耕作を行うも、洪水との戦いの歴史でもあったようだ。吹上遺跡は玉作が盛んにおこなわれ、釜蓋遺跡からもヒスイをはじめ玉作を示唆する出土品が出ているらしい。
釜蓋遺跡を見学し、雪の残る妙高山方面を眺め、急いで妙高羽馬ラインの電車に乗り、高田駅に移動、高速バスで新潟に向かい、途中の高速鳥原(突破ら)バス停で下車し、タクシーを呼んで新潟市の文化財センターの砂丘と遺跡店2を見る。関連後援会は砂丘の形成過程を地質の専門家が解説するもので、現在残っている砂丘列の成り立ちを解明しようとする興味深いものだった。